いまの御質問かちょっと——正式に入っておったかどうかというのは、どういう意味でございますか。
いまの御質問かちょっと——正式に入っておったかどうかというのは、どういう意味でございますか。
それは先ほど証言したとおりに、三月の、ちょっと日にちは忘れましたが、ダグラスの方から説明団というのが社長引き連れて来たわけでございます。それは私の社長の応接室で説明を聞いたのです。それから私と三井物産の若杉とダグラスの社長の間で、三井クラブで昼飯を食いながらいろいろ打ち合わせをして、最終的な打ち合わせの書類をそこでつくり上げたわけでございます。それを持って、明くる日ダグラスのマクゴーウェンと灘波とが来たわけでございます。そこで私はその書類にサインしたかどうか、ちょっと記憶が薄いので、サインしたように思うと申し上げたんですが、先ほどのお話では、大庭さんがサインしているという話なんで、サインしたんだろうと思います。
そうです。
三井物産は常に介入していました。三井物産なしにはやっていませんです。
松尾さんが私に話されて、長谷村と一緒に会ったときは、そのときではありません。前か前の日です。二十六日に会って二十七日ごろじゃないですか。
余り細かいことは申せませんが、おまえのためにいろいろ尽力をしてみたが、どうももう手がつかない、おれももうここで手を上げるからおまえもひとつ善処しろというだけでございます。やめろとは申しませんです。
そういう意味では全然ありませんです。恐らく、先ほど証言しましたように、名鉄の土川さんからの書類によって皆が動き出したわけですから、松尾さんもしたがって、こういう書類が来ているが、大庭はひとつ社長にしてやってくれというので奔走されたんだと思います。ところが、二十六日の取締役会で再び——再びと申しますか、そのときに先ほど申しました松原さんの方から会長にしたらどうかという話が出たものですから、松尾さんはそれはとんでもない、私はもう中座するということで席を立たれたわけであります。その後、いろいろ私のために奔走していただいたわけですが、あれは二十九日の昼過ぎだと思いますが、パレスで松尾さんと会ったときに松尾さんの方で、尽力したがもう手がつかな
それは最初からの証言のとおりに、私はDC10で邪魔をされたということはそのときには少しも感じませんでした。念書の問題だけで、私の行為が至らなかったというだけでありまして、DC10というものについて、先ほど御質問がありましたように、私はDC10を採用して進んでいけば危なくなるかもわからぬという懸念はありましたけれども、そのときに私は、やめる理由としては、DC10というものは一つも考えていませんでした。念書の問題で追い詰められたんだ。それがある程度、念書の問題は会社に迷惑をさしていないんだ、したがってやればやれるんだということは、各方面から激励の言葉はありましたけれども、私は四十四年度に一応そういう目に遭っているわけで、ここでまたそれを
宣誓書 良心に従つて、真実を述べ、何事もかくさず、 又、何事もつけ加えないことを誓います 昭和五十一年三月一日 大庭哲夫
さようでございます。
生年月日、明治三十六年十二月二日生まれ。職業は、現在、東京空港交通株式会社社長でございます。
全日空へ入社いたしましたのは四十二年の六月だと存じています。 理由は、そのときまでにいろいろ全日空に事故が続いたものですから、日本航空の社長でありました松尾から、大庭、行って全日空の立て直しをしなさいということでありましたので、私、引き受けまして、全日空に参りました。
まことに申しわけありませんでした。住所は川崎市高津区千九百四十六だと思います。
お答え申し上げます。 私が全日空に参りましたのは、先ほどお答えいたしましたように四十二年の四月からだったと思いますが、それ以後全日空の建て直しのために誠意努力してまいりました。 四十四年の六月に私社長になったわけでありますが、社長になって以後四カ年計画というものをつくり上げまして、現在持っている機材と、今後需要の見通しに応じ、路線の拡張に応じて必要な機材というものを計画いたしまして、その計画の結果、四十七年の初めに大型機、いわゆるジャンボジェットを入れる計画を立てたわけでございます。しかし、立てた当時の全日空は、まだ私が参りまして二年しかたっていなかったために、いろいろ整備その他について不満足のものがあったわけでありまして、
先ほど申しましたように、四十四年に五カ年計画を立てて、四十七年に大型機を導入するということに決めて進んでいったわけでありますが、いまお尋ねの、大庭はダグラスDC10をあらかじめ想定していたんでないかというお尋ねだと存じますが、私は日本航空にいるときから、ジャンボジェットというものにつきましてはあらゆる研究をしていました。したがいまして、私がそのときまでの検討をした結果においては、ダグラスのDC10が一等全日空に適する機材だと考えていたわけであります。したがいまして、機材を購入する順序としまして、まず各メーカーから来ます説明を、あらゆる面において社員に十分説明をさせて勉強をさせたわけであります。その後で、四十五年の一月か二月の初めだっ
私の記憶では調査報告を聞いた後だったと思います。したがって、三月の前か後ろかわかりませんが、記憶によると三月だと存じております。
来た者は、多分ダグラス社から来たのでなくて、こちらにいるダグラス社の人間が本社の意向を受けて来たんでなかったかと思うのであります。したがいまして、製造番号を押さえたという印が欲しいということでサインしたように思うのでございます。しかし、そのサインというものは、先方が書類を本社に送るために必要な私のサインを求めたからサインしたんだと存じているわけでございます。
全然ありません。
ちょっとむずかしい御質問でございますが、あえて御回答申すといたしますと、現在では、全日空としてDC10でなくてロッキードでもやっていけたのではないかとは思います。ということは、DC10を入れるのは四十七年の初めであったために、相当私が計画的にすべてを進めなければできない状態にあったわけです。もしもできないときには、整備において日本航空の援助を求めなければいけない状態は覚悟していたわけでございます。しかし、結果的に今日、全日空がロッキードを四十七年でなしに四十九年に入れた。二年間の進歩は、私は整備その他について相当進歩していたのではないかと思いますから、必ずしもそれが悪かったとは思いませんが、いまだに私自身としては、もしもいればやはり
お答えいたします。 私が全日本空輸をやめたのは、一つにかかって社内的な問題と、もう一つは、いま委員長から御質問を受けました融資の問題とであります。そのときに機材的な問題があったとは私は存じていません。特に、いま御質問になりました機材の購入について、そのときに社内的に問題があったとは私はそのときには思っていませんでした。と申すのは、先ほど御説明申し上げましたように、調査団の報告も、決してどれがいいという報告ではなかったし、そのときの重役にしても社員にしても、どの機材がいいという確たる判別はついていなかったはずだと思います。したがって、私がリードせざるを得ない立場にあったわけでありまして、決して私は機種の問題でやめたとは思っていませ