私はその当時辞めているわけですから、辞めている人間に対してどうしてそういう話をされるのかという違和感は持ちましたけれども、もう当時ということであればそれだけでございました。
私はその当時辞めているわけですから、辞めている人間に対してどうしてそういう話をされるのかという違和感は持ちましたけれども、もう当時ということであればそれだけでございました。
私、突然の御質問なんですけれども、私は記憶にはございません。覚えておりません。
いや、私の頭は、アメリカとのこのグアムの移転の交渉については、アメリカは当然タフネゴシエーターでございますから、言い値は高いものを言ってまいります。それに対して、そのとおりにやらないというのは私たちの主張でございますから、私の頭ではいまだ交渉中であるという整理でございまして、その値段で、私の後輩がその値段で握るということは私は考えておりませんし、いまだ交渉中というような認識でございます。
額賀さんとのあれははっきり覚えておりまして、昔の国防省のジム・アワーが日本に来たときに、何人かが、神田の料亭だったと思いますけれども、集まったところに私が行きましたら、そこに宮崎さんが来て、それから額賀先生が来て、そして額賀先生が最初に帰っていったと、そういう会合でございまして、私の記憶にあるのは、額賀先生との会議ではそうでございます。 それから、久間先生との会議は、もう今年でも去年でもなくて、もっと二、三年前だったような気がしますけれども、六本木の旧防衛庁のそばにあった料亭だったんではなかったかと思っております。
ゴルフを始めたころに、もう今から十二、三年前ですけれども、やった記憶はありますけれども、それ以外はありません。
商社の方……
商社の方と言いましたから、商社の方とは始めたころやったことはありますけれども、それ以外はございません。
若いときの記憶ですから、負けた、負けて、自分で、あなた払わないんだろうなということを言われて、自分で払ったという大変悔しい記憶として鮮明に覚えております。
娘はレンセラー大学に今入っておりませんで、語学学校で勉強している最中でございまして、レンセラー大学に入れてほしいというような状況にはございませんし、私から頼んだこともございません。
私はすべて、自分の娘のことでございますから私のお金でやっております。はい。 それから、レンセラー大学には現在入っておりません。
衆議院での証人喚問の前日、新聞でそれが報道されているということを知りまして、山田洋行に行っているOBというのは私の知っている人は一人しかいませんから、私は、証人喚問で知ってないと、そういうこと、という不安に駆られましてその人に電話したことは事実でございます。そして、その人が私に説明に来たということは聞きました。 ですけれども、私は説明に来たこと自体全く記憶にございませんでした。
私も、そういうふうな、当時の記憶としてそういうふうなことをしたという記憶は一切ございません。
全く記憶にございません。
私はそういうものにつきまして知見がございませんので、今の議員の質問に対してお答えするということはできません。
はい、唱えておりました。
埋立て案に変更されたというのは、V字案のことでございますか。
L字からV字にですか。
失礼しました。今答弁してよろしゅうございますか。
アメリカ側とはL字案で合意したことは、陸上案で合意したことは事実でございます。 ただ、アメリカ側との交渉というのは、地元と、アメリカと日本だけが交渉すればいいんでなくて、受け手である地元との交渉というのがあったわけでございますが、三者から、最初から三者を入れてやると難しいので、最初、日本とアメリカとの考え方を固めるという手法を取りまして、固めてから地元に話すというやり方を取ったわけでございます。 それで、L字案を基に地元と話したわけでございますが、地元は、L字案でありますと地元の集落の上を飛行機が通過すると、これだけは何としても避けてほしいということでございまして、最初、まあ御承知かと思いますけれども、あそこには名護市という
これには経緯がございまして、私どもは名護市とそれから宜野座村と合意書を結んだ上で、今度は当時の稲嶺知事と合意書を結んで、稲嶺知事も合意をされたわけです。ですが、終わった後の記者会見で、たしか地元の記者からだったんですが、あなたは合意しないと言っていたのに合意したのかと言われたら、その記者会見で、いや、私は合意していないということを言いまして、合意書があるのにもかかわらず稲嶺知事は合意していないということを言ったわけでございます、そして、仲井眞さんはその後県知事選挙に出たときも、そのV字案には反対だということを公約に言って当選したものでございますから、その公約を変えるわけにはいかないと、政府案を修正してほしいと、こういうことで、私は仲