一般問題としてお伺いしておきましょう。糾弾というあり方はあってはならない関係だと、大学教授と社会とのそれは対話ではないと、こういう前提に立って糾弾をするということが明らかになっておる際ですね、一般的にですよ、今後も起こることですから。学校の施設を供与をする。こういうことは妥当なことであるのかないのか、これについて大臣いかがですか。
一般問題としてお伺いしておきましょう。糾弾というあり方はあってはならない関係だと、大学教授と社会とのそれは対話ではないと、こういう前提に立って糾弾をするということが明らかになっておる際ですね、一般的にですよ、今後も起こることですから。学校の施設を供与をする。こういうことは妥当なことであるのかないのか、これについて大臣いかがですか。
それでは、具体的な内容が逐次明らかになった場合には、そういう基本姿勢から具体的な指導が行われると、こういうふうに確認をして、もう少し、私自身もいろいろ見てまいった問題がございますから、具体的にお尋ねをしたいと思うんです。 この四月二十七日の大学側容認のもとに行われた糾弾会というのは、その後さまざまな大学に対する強制介入、これを導入をする端緒になっておるわけです。その後、そのとき以来反帝学評の狭山実行委員会と名のる学生諸君が、いわゆる差別摘発隊というようなことになりまして、各学科、とりわけ小学校課程なんかの教材研究の講義なんかの中で一々の問題をあげつらって、それが解同の後押しということになれば学校側としてはそのことに対して適切な処
封鎖に当たった者の人数その他については聞き及んでおられますか、その暴力学生の状況については。
私の聞くところでは、十人前後の者であって、大学が決意をすれば中止をしなければならぬほどのものではないということ、学生諸君が、そういうことでテストを中止をするのはけしからぬし、封鎖をするということは学生の意思でないというので、封鎖に反対をし、テストが行われるようにということを、自治会の執行部を代表として大学に申し入れておるわけですね。しかし大学は、テストを行おうとする措置をとることなく、これらの少数の諸君の要求を受け入れて、そうしてこのテストを中止をしておる。私がこれを調べてみたところでは、これは常識と思えないわけですね。これは、狭山実行委員会と名のる諸君の言い分には、背後関係を恐れてその要求をのんだというふうに理解するより理解のしよ
大臣にお伺いをするんですが、実際上、全学生は封鎖に反対をし、そしてテストが行われることを望み、そして一部の学生が孤立しながらそういう姿をとった。そうすると、その要求を受け入れてテストをやめてしまうという大学の態度なんですね。私は、これが糾弾のもたらしたものだというふうに解釈をしております。しかし、私は解釈についてお伺いをするのではないんです。こういうふうにテストを行うことと、正常に大学を運営をしようとする姿勢を欠くような大学の態度について正当か不当かと、このことをお伺いしておきたいんです。
これはまあ起こってしまった問題でありますが、特に教育問題と言わず、これらの問題を検討するときは常に将来再び起こらないようにと、あるいは誤った状況が正されるようにという観点で問題を見ていく必要があると思うんです。ところが、この状況ですね、大学側は部落解放同盟のこの糾弾を受けて以降、そこに義理を立てて、具体的に学生の声に耳を傾けるかというと、指導が変わって反帝学評の手から正しく封鎖に反対をし、授業妨害に反対をし、勉学を進める方向で自治会が動き始めると、そことの対話、交渉をなおざりにして、引き続いて狭山実行委員会と協議をして、この要求に対してはほとんど無条件で受け入れるような状況が見られておる。その中で二月の段階におきまして、この狭山実行
一定の範囲では御承知と思いますが、私はその三教官とお一人ずつお目にかかりました。率直に言って、初めは私の授業は妨害されておりませんとか、そういうことを言われたです。討論は授業でありまして、単位を与えてしまえばそう言わなければならなくなるとしたら、一体どういうことなんでしょうと、学科というものは。授業の間に何人かの学生がハンドマイクを持って叫び、その中で言おうとする講義は行え得なくて、それが十五回ある講義の中で八回続き、七回は倒れて入院をし、そのあとでレポートで単位を与えるというのが正常でしたと、これは専門職の悲しさなんでしょうかね。与えてしまえば責任を持たなければならぬのですから。これは大学が全体としてそういうことが起こらないように
私は、学習評価と指導要録の問題について、主として文部大臣に御質問したいと思っています。 授業についていけない子供の問題が出てから、それが五%とか一割ということじゃないというふうなゆゆしい問題として提起されてかなり年がたっているのですけれども、基本的に下の方から目に見えてよくなったと、こういうことを言うことができる状態にはなっていないわけですね。これは、いわば学校の存立を問われる問題ではないかというふうに私は思うのです、五割とかいうような子供たちが理解できない授業を受けながら教室の中ですわっておるというような状況は。まあ学習ぎらい、学校ぎらいというような問題は、これがかかわっておるということになれば、これは深く、やっぱり子供だけの
どうも具体的な中身に十分に触れておられないように思いますので、包括的にそういうふうに言われても明らかにならないのですが、やはりここで、学習評価というものが子供を引き上げていく上でプラスの役割りを果たし得るのかどうかということで、そもそも昭和四十六年以来かなりごうごうと、いまの五段階評価のマイナス点については大きく述べられておる。ただ、それに政府の高官が反応されるのが戦前復古型で対応される、当時の次官の反応とか、この点そのままできておるような状態があるんじゃないか。ここで問題があるのは学習評価、直接には通信簿であらわれてくるわけですけれども、これが学力をあらわしているのか、修得結果をどこまであらわしているのかということと、システムとし
ここで議論する時間もないのですけれども、あれこれ言われて、いまのところ父母の希望と批判に対しては、指導要録は二つの性格を持って、指導原簿であると同時に証明の原簿だと、主として五段階評価の客観性が、証明原簿を支える上でいまのところ取りかえがたいものだというふうなことを言われているんだと思うんですけれども、現実に証明をするということは、たとえば中学なら高校入試の際の成績証明になるものであり、現実にここのところが最も公簿として教師が力を注いでやらなければならぬ指導原理になっておるので、通信簿だけ適当に書いておけなどということは、一種の学校指導体系の中でそこに熱中する者は個人的なむだ骨を負っているような姿になって、やっぱり国民の声にもかかわ
その最後の諸外国の例から言えば、私も、ヨーロッパの若干の国はじかに行って話を聞いたこともあるわけです。アメリカのものは文献で見ておるのですけれども、全部ガウスの分布表などを、ある時期にはソ連なんかもそれに近いことをやったことはあっても全部やめているのが今日の特徴だというふうにぼくは承知しているんですよ。すべて、これは到達度評価を行っているのであって、三段階であれ五段階であれ、それは到達度の評価であって、それが目標に対して履修効果がどこまで上がっておるかということを示すものであって、クラスの中で分けた何番というような席次のようなものを示すものではないということですね。ある時期まで、古来のやつに対して一種のプラグマチックなやり方でこうい
引き続いて他の機会にさらに詰めたい問題があるのですが、どうもいまの答弁では、要するに子供の到達度をしっかりとつかんで、そうしてこれを子供にも知らせ、これを教師も知って、そうして指導を進めていくということが制度的に義務づけられていないわけですね、どうしても。評価というのは、そういうことをさせる統一指導というのは非常に重要な道具と言ってはなんですけれども、手段なわけですよ。ところが、その部分について、いわば「所見」のところで留意せよという程度においてどこまでも五段階の相対評価を指導要録においてはやっていかれるということでは、やっぱりこの問題については前進がないと、このことを私は強く指摘しておきたい。特にここで、全国一斉に文部省が号令して
そうでしょう。その地教行法で市町村の所管になるのであって、もしこれがなければ学校教育法の施行規則なりあるいは施行令によって学校長が所管すると、こうなっているのを、この地教行法があるからこれについて市町村教委が基準をつくることができるというふうになっているわけだと把握しているんですけれども、そのとおりでいいですか。
その点は非常にはっきりしておると思うのです。そういう点から言えば、文部省でもいろいろ言われるわけですけれども、今度のたとえば京都の試みが市町村教育委員会によって検討された結果実施に移されると、こういうことが実際に起こってきた場合には、法的には何の支障もないわけだと思うんですけれども、そうなわけでしょう。
つまり、その指導助言の上で実際市町村教委が実施に及んだとして法的に何の差し支えもなければ問題もないと、このことははっきり確認できますね、ということを聞いておるのです。
非常にその点ははっきりしておると思うんです。 以上のような状況で、いま、国民課題として子供の学力問題がある。大臣も、前大臣と所信表明、同じようなところもたくさんありましたけれども、幾らか違うところの中に基礎学力の問題があるんですからね、この問題については、考えなければならぬ、検討しますを越えて、少なくとも任期中に一定の前進があるようにひとつやってもらいたいと思いますし、この質問が出たときに、人間評価の問題の話なんぞされても、やっぱりこれは教育の専門家の具体的な実践を積み上げた意見の上に、そうして現実の試みの上に乗せて、いわば地方教育委員会の行政権を非常に尊重される文部大臣だということは、八鹿高校事件以来、私の方が骨身にしみてわか
原子力問題について質問をしたいと思います。この国会の中で福田副総理の方からいわゆる原子力発電計画の六千万キロワットというのは、これは縮小避けられぬ、目標を達成することはむずかしいということが述べられ、阻害の要因としては安全と環境の問題があるんだと、こういうことでありました。また佐々木長官は、この問題について飛ぶ前に踏めというような表現をされて、今日、従来に対して一転反省を行って安全問題については新しく見直さなければならぬという趣旨を述べられておるのでありますが、重ねてお伺いするようになりますけれども、ここで安全問題と環境問題について根本から見直し策をとる、その基本についていまの時点の考えと、そして施策をお伺いをしておきたい。
国民の理解の問題とか、立地条件とか、大体この辺のところから問題を出されるのが通例になっておるんですけれども、私はここで今日の状況に立って最大のポイントは、やはり安全審査機構をこの際どのように見直し、強化をし、そして力のあるものにするかというところにポイントがあるんじゃないかと思うんです。もしよしんばこの立地条件あるいは住民の理解に困難があろうがなかろうが、私はいまの機構のあり方で、そのままで手順を尽くしていくなら、この目標というようなものはもともと達成しがたいような条件の中に置かれておったんじゃないかと思うわけです。そこでお伺いをするのですが、東海一号炉以来二十三基の建設をされると、この間に大体何年を要し、安全審査委員会で、ここで認
トータルで千六百五十万キロワット発電をするということになっておるこの二十三基の建設、初年度以来十年を経過をしておって、これが審査にかけられてパスをしたというのは、一番多かった年で四基ぐらいであったというふうに承知をしておりますが、そういうことですね。
この機構でもって六十年に六千万キロワットの発電をなし遂げようとすれば、大体年当たりどのくらいやっていかなければならぬのか、これをお伺いしておきたいと思います。