そこで日本の国家といたしましては、どこまでもこの戰力の保持は禁じておるのでありまするから、全然再軍備をすることもできなければ、又その意思もない、又我々は今後の……。
そこで日本の国家といたしましては、どこまでもこの戰力の保持は禁じておるのでありまするから、全然再軍備をすることもできなければ、又その意思もない、又我々は今後の……。
戰力というものはそれ以下のものは法理的には持つて差支えないという議論は出るわけでありまするが、日本の今の国情といたしましてさようなものは持つ意思はないということを私は言いたいのであります。
私は詳細な点は伺つておりません。
私はその数字の点について詳細なことを今初めて知つたのでありまするが、これは昨日も申上げました通り、この戰力は相対的のものでありまして決して確定不動のものでないのでありまするからして、相手次第と私は言わざるを得ないのであります。ただただ今仰せのグロムイコ大使の言われました兵力、これは又相対的のもので、日本としてこれが兵力になるか或いは戰力になるかということは確定的に私は申すことができないと、こう考えております。客観情勢その他の点から十二分にそれを検討した上で果してこれは戰力になるかどうかということをきめるべきであろうと考えております。
さような確定的な又具体的なことは私は申上げることはできない。ただ客観情勢その他から時々にそれを考慮し、愼重に検討した上で、果してそれが戰力と言い得るかどうかということをきめるべきであると私はこう考える、具体的なことは私は申上げられません。
日本の戰力たるべきものである前提といたしましては、日本の政府がそれを指揮命令して、果してそれが動くかどうかということに私は問題が置かれるものとこう考えておるのでありまして、日本軍は、日本の政府がそれを指揮命令するに至つて初めて日本の軍隊なり戰力なりということが言い得るものと考えております。
協議にあずかるということは認めておるのであります。併し全然駐留軍に対して日本の政府は指揮命令権を持たないのであります。
これはただ協議にあずかるのでありまして、駐留軍の指揮命令は駐留軍のほうでやるべきものと私は考えております。
その点については明瞭ではありません。
憲法第五條第二項の「戰力」とは何であるか。極めて概括な文字で示されておるのでありますけれども、この点については一定の確たるものはまだないのであります。少くともこの戰力如何ということを解するについては、憲法第九條は如何にして設けられたか、如何なる理由で設けられたかということに思いをいたさなくちやならんかと思うのであります。即ち憲法の第九條を設けられた趣旨というのは、結局太平洋戰争のような愚を再び繰返すようなことに相成つてはならん、これに私は発足しておると考えておるのであります。そこで徒らに戰争をするような裝備、兵力を持つということは全くしまい、これが根本の精神であると考えております。要は戰力というのは何であるかと言えば、結局国際社会通
只今申上げたのでありますが、ソ連のことが出ました。これも一応申上げておきたい。ソ連では外国と戰うべき有力な丘力を持つております。これは楠見君も御存じのことだろうと思います。百何十個師団という堂々たる裝備を持つております。それと一方において内地の、あの国情にもよりましようが、内地の叛乱に備えるべき一種の予備隊、これは外敵と戰うところの兵備ではありません。(「何だ」と呼ぶ者あり)併しこれは一種のつまり防備隊、日本で言えば予備隊に相当すべきものであります。(「何だ」「だまつて聞け」と呼ぶ者あり)それと……。
警察部隊と数段階のものを持つておるのであります。そこで日本の戰力というものは、外敵と戰い得るほどの能力を持つに至りますれば、これは当然戰力であります。併し外敵と戰い得るというのは、結局近代戰を遂行し得るに必要な且つ適切なる裝備と編制を持たなければならん。つまり軍隊的の裝備と編制を持たなければならん、これが肝腎であります。現在の段階におきましては、日本の警察予備隊はそういうような編制、裝備を持つていない。これは外敵と戰うという段階に至るようなものではない。ここに私は判断の基礎を置いております。これを一たび外敵と戰い得る編制、裝備を持つに至りますれば、無論九條第二項の戰力としてあらかじめ憲法改正の必要があると考えるのであります。
この兵力量の問題でありまするが、いわゆるこの兵力というのは、編制と裝備と総合したもので判断するのであります。編制が如何に立派でありましても、その裝備が貧弱であれば、これは近代職を有効適切に遂行し得る能力とは言えないから、戰力とは申せません。如何に少くても十分なる裝備をここに備えれば、一個の戰力たり得るものであると私は考えます。要は兵員と、それに使うべき裝備と相待つた総合力であるのでありますから、たとえこれが警察隊が十一万のものを十五万になると仮定いたしましても、それに使用すべき裝備が近代戰を有効適切に遂行し得る能力のないものであれば、これは戰力にならない、こう考えております。いわゆる兵力と編制裝備を噛み合した一個の総合体でこれを判断
要は、問題になるのは今の警察予備隊の問題でありまするが、これが只今のところではどれだけになるかというのは、私の所管外のことでありまするから、的確なる数字はわかりません。併し裝備も、私の聞くところによりますると、バズーカ砲とか、機関銃とか持つているということは事実だそうでありますが、併したとえばそういうものを持つておりましても、これは私は近代戰を遂行し得る能力はないものと考えております。これは兵の専門に関することでありまするが、近代戰におきましては相当な重裝備を持たなければならん、軽裝備だけではいかんのであります。今の警察予備隊は重裝備というものは持つていないのであります。これはほんの警察力の補充に過ぎないものと、私はこう見ているので
これはアメリカの裝備が戰力に相当するか相当しないかということは、これは別個の問題であります。(「それを聞いているのだ」と呼ぶ者あり)これはただどれだけの戰力を持つて来るか、或いは戰力に相当しないものを持つて来るか、これは只今の段階ではわからないのです。
繰返して申しまするが、この戰力にあらざるか、戰力であるかということは先ほど申した通りであります。そこでアメリカ駐留軍が如何なる裝備を持つて来るか、これはいわゆるその外敵の侵入の客観的情勢によるものと私は考えております。それで外国のいわゆる侵略に用いる裝備は、これがいわゆる今吉川君の申されました通り、原子兵器或いはその他の有力な近代兵器を用いる可能性あれば、これは無論アメリカ軍におきましてもさようなものを用いる決意と覚悟はあるものと十分推察されるのであります。要はつまり相手方の兵力如何、ここに帰着することであろうと思います。そこでアメリカ軍が如何なる裝備を持つかということについては、我々はそれを知るべき段階でないというのであります。
今の私の点について、さように私は申上げます。つまり米駐留軍というのは、結局日本のこの何と申しましようか、何らの裝備ないこの日本を守ろうということであります。つまり日本においては戰力がないから、日本に代つて日本の国の外敵の侵入を守ろうというのであります。従つてです、外敵の裝備如何によつてこれに対応すべき兵力、軍力を持つことは、これは当然であります。併しそれが外敵が如何なる裝備を持つ、それに対して駐留軍が対応すべき兵力如何ということの具体的内容については、我々は何ら今の段階においては関知しないのであります。将来においては大いにこの問題については協議をすることでありましようが、今の段階において如何なる裝備、如何なる兵力を持つかということは
先ほど申しました通りでありますが、無論アメリカ軍としては、近代戰に適応すべき裝備を持つて来るものと確信しております。それは現在の外敵は如何なるものを仮裝敵国にしておるか、これは私にはわかりませんが、少くとも日本のこの国土を外敵が侵入するのにおきましては、近代兵器を持つ、用いるということは、これは当然であります。従つて、いわゆる日本の憲法第九條の戰力に相当すべき兵力は当然持つて来るものと私はこう考えております。それでなければ恐らく外敵の侵入には日本は耐えないことは当然であります。少くとも近代戰を有効且つ適切に遂行し得る編成裝備を持つた軍隊が駐留せらるべきものと私はこう考えております。
申上げます。要はは憲法第九條の精神であります。先ほど申上げました通り、これは太平洋戰争のような愚を再び繰返すことをしないということであります。そこでこの戰力というものは先ほど申上げましたように、つまり客観情勢、殊に我が国の地理の問題、それからみんな総合したもので判断すべきものであろうと考えます。現在の段階においては私はこの周囲の事情からいろいろ総合してこれを考察しなければならん。結局日本だけの問題ではないのであります。それですから、日本が侵略戰争にこれを使い得るような裝備でありますると、これは無論戰力に該当するのであります。日本が侵略戰争に使い得る裝備と言えば、結局近代戰を有効適切に遂行するような編成を称するのだということになければ
單純に国を守るというだけのものであれば、結局戰力ではないと私は考えております。