今回はいままでの例と異なって、政府が環境基準そのものを中公審に諮問しないままで、そして環境基準を変えようとしている。こういう点で大分議論もされてきたわけですが、政府の態度は、今回は科学と行政の役割りをはっきり区別する、これは橋本局長は何回も言われているわけですが、答申はあくまでも科学的で客観的な、純粋に学問的なものだ、こう言われています。これに基づいて、二酸化窒素の環境基準の改定は総合政策的行政の責任で判断する、こう言われているのですが、そうですね。
今回はいままでの例と異なって、政府が環境基準そのものを中公審に諮問しないままで、そして環境基準を変えようとしている。こういう点で大分議論もされてきたわけですが、政府の態度は、今回は科学と行政の役割りをはっきり区別する、これは橋本局長は何回も言われているわけですが、答申はあくまでも科学的で客観的な、純粋に学問的なものだ、こう言われています。これに基づいて、二酸化窒素の環境基準の改定は総合政策的行政の責任で判断する、こう言われているのですが、そうですね。
だから、今回の指針値である年平均値〇・〇二ないし〇・〇三ppm、これに基づいて環境基準値をどう決めるかは総合政策的に考えるべきことであって、学問の問題ではない、行政の問題だ。学問的判断というのは答申で尽きているから、改めて環境基準そのものを中公審に諮問するつもりはない、こういうふうな態度をとっておられるように思いますが、そう確認してよろしいですか。
この前の政府の答弁を見てみますと、どうもこの指針値の範囲内で、すなわち現行の一日平均値〇・〇二の二倍から三倍というところで環境基準の改定を行おうというように受け取れるけれども、政府の考えはどうでしょう。
六月五日付の「二酸化窒素に係る環境基準について」、これを見ますと、最後のところで、安全係数を掛ける必要はない。中公審では「これ以上にきびしくする理由はないと合意された。」とあるのですが、ここのところの正確な理解は、指針値についてこれ以上厳しくする理由はないと合意されたのであって、環境基準値について云々したものではないわけです。中公審は環境基準を諮問されたわけでもないのだし、答申を見ても、この文章を見ても、はっきりそうなっているわけですが、そうですね。
そこで、日本の環境基準の持つ性格について聞きたいのですが、まず、この法的な性格が問題です。これはOECDに環境庁が参考資料として提出された「日本の環境政策」というOECDレビュー会議のための参考資料を見ますと、世界で採用されている環境基準の概念を四つに分類している。日本の場合は、長期的な行政目標である。今回の資料でも、日本の環境基準は行政上の努力目標としての基準で、法的な拘束力はないというように述べていますが、日本の環境基準の法的性格はそれでいいのですね。
日本の環境基準というのはそういうものだ。 今度は、医学的、公衆衛生学的には日本の環境基準はどのような性格を持っておるか。これは橋本局長が昨年の当委員会ではっきりと述べておられます。WHOがいま言っておりますのは、医学的、公衆衛生学的に見ますと、トレラブルとアクセプタブルとディザイアラブルと三つある。ある国はトレラブルの基準をつくるし、ある国はアクセプタブルの基準をつくるし、ある国はディザイアラブルの基準をつくるということで、日本はディザイアラブルのところになっておるということを、局長自身言われておるわけですが、とすれば日本の環境基準は、医学的、公衆衛生学的にはディザイアラブルであるということになると思うのですが、そうですね。
法的には行政上の努力目標だ、これは問題ないわけですが、医学的にあるいは公衆衛生学的にはディザイアラブルな水準になるのではないのですか。この前WHOについて局長が言うたとき、そういうふうにとれるように言っていますけれども、違うのですか。
局長は、この十三日の委員会で、今回の指針値が病気ではなく、「健康な状態からの偏り」に留意をして「高い確率で人の健康への好ましくない影響をさけることができると判断される」、こういうことを理由に、個人的にはディザイアラブルだという答えをされたと思うのですが、しかしこれは、局長のこれまで言っていることと矛盾するように私たちは思っておるわけです。答申は純粋に学問的なもの、あとは総合政策的に行政が基準値を決める、こうも言っておられた。しかし、今回の指針値がディザイアラブルなものかどうかというのは、総合政策的なことではなくて、医学的、公衆衛生学的な学問の問題だ、それを勝手に行政が判断するのは許されないはずだというふうに思うのです。今回の指針値の
しかし、鈴木専門委員会の責任者は参議院で、「この指針というものを考えます場合におきましては、どのような影響を防止するのが必要であるかという条件次第によりましては、指針の内容は当然のごとく変わってまいります。」こういうように言って、今回の指針値は「あくまでも後で目標値というものを導き出すための最低の濃度」こう言っています。これはアクセプタブルなものであるということを言っているんだと思うのですが、諮問を受けた学者の責任者がそう言っておるわけですから、行政の方で望ましいものというふうに勝手に決めていくのはおかしいんじゃないか、こう思うのですが、どうでしょう。
中公審に諮問するときに、アクセプタブルとディザイアラブルとの二本立てで諮問するというのは、去年の十月にも同じことを言われているわけですが、二本立てというよりはむしろアクセプタブルなものを求めるのが本来諮問の意図というか筋ということではないんでしょうか、どうなんです。
局長は、昨年の十月二十六日の参議院の公環特で、二つの指針値を求めると言っておりますが、いまの環境基準は非常にむずかしい、中間目標値でさえ大きなドラスチックな策が必要でコンセンサスを得るのはむずかしい、だから、これは局長の言葉ですが、「これは、非常に正直に申しますと、最後の突っかい棒として、絶対これだけはクリアしなければならないというところで出すために、受け入れることのできる健康を守る水準ということを諮問しているわけでございます。」と、これは「正直に申しますと、」ということで言っておられるわけですが、要するにいまの環境基準についていろいろ問題が起こっているから、最後の突っかい棒としての絶対クリアしなければならないもの、これを諮問したと
もう時間ですから。要するに、当初は「正直に申しますと、」ということで諮問したい、それと違った答申が出てきたようなかっこうになっておって、今度はそれに従って変えていこう、緩和していこうというようなことになるのは、これはどうしても納得がいかぬ。私たちは、この際、局長は、住民特に被害者、患者の立場に立って、こういう環境基準の緩和というようなことじゃなくて当面の極端な汚染状態の解消、窒素酸化物についての指定というふうな点にこそ力を注ぐべきである、基準の改定はやらないというふうにされるようにこれは強く要請をしまして、もう時間ですので、質問を終わります。
最初に、長官にお伺いしたいのですが、先月出されました白書を見ますと、産業公害の防止は相当程度の成功をおさめた、こういうふうに言われて、「世界の環境保全国」を目指すというふうに言われておるわけですが、昨日の公害被害者総行動デーを見ましても明らかでありますように、大気汚染にしましても水俣病にしましても、まだまだ問題が山積しております。総行動デーが一昨年より昨年、昨年よりもことしというふうに年々盛大になっているのを見ましても、これらの問題は依然として重要であることが明らかだと思うのですが、これは被害者の問題の解決なくして「世界の環境保全国」というふうにはなり得ないのではないかと思うのでありますが、白書に関連をして長官の御見解をお聞きしたい
白書を見ますと、公害は基本的に解決した、あとは世界に冠たる「環境保全国」を目指すというふうな印象を与えるわけでありますけれども、これは非常にバラ色に描かれていると思うのですが、しかし、現実はそうではない。いま長官も言われましたが、日本の公害、環境問題はやはり深刻なものがまだ現にあります。世界に例を見ない日本の公害の実態というのは、パリで、パリも日本のようになるぞというふうに一時言われたことかあるぐらい、世界でそれこそ冠たる公害国だったわけでありますが、これはどんな時代になっても将来にこの経験、教訓というものは受け継がれていかなければいかぬじゃないか。そうしてこそ本当に「環境保全国」を目指すということになっていくのじゃないかと思うので
きょう文部省に来ていただいておるのですが、昨年学習指導要領が新しく改定されました。公害教育に関する部分が相当変わっているようでありますが、どういうふうに変わったのか、御説明をお願いしたい。
昭和四十三年の学習指導要領、それが四十三年で一部また改定をされて、四十六年から教科書がその学習指導要領に基づいて動き出した。今度五十二年度に改定をされた。 小学校の五年生の社会科、それから中学校の社会、公民的分野というのですか、これを見ますと、これは明らかに変わっていますね。四十三年に出されて、そして一回改定されて、その部分が今度は五十二年では旧四十三年度に逆戻りをしているのじゃないんですか。
では、具体的に申し上げますと、小学校社会五年、四十三年について言えば、「産業による公害などから生活環境を守る努力を続けている都市の事例、」——関係のないところはちょっと省略しますが、「などを取り上げ、」というふうになっておったのが、公害国会の後一部改定がされて、「産業などによる各種の公害から国民の健康や生活環境を守ることがきわめてたいせつであることを具体的事例によって理解するとともに、」という、具体的事例によって理解するようにさせるということが入れられたわけであります。一部一公害基本法が変わり、いまあなたが一部改定したということを言われたのは、この「具体的事例によって理解するとともに、」ということになっているところが変わったわけです
そうすると、現在の教科書を見ますと、具体的事例に即して、たとえば水俣病の問題とか、あるいは四日市公害の問題の経過を具体的に書いて、そして理解をさせるようにしているわけでありますが、今度の学習指導要領では、具体的事例によって理解させるというその部分が落ちておる。説明書というのを見ても、いま読まれた中にはそのことは書いてなかったわけですね。しかしそれは表現が違うだけで実態は変わっていないのだというふうにはっきり言われるのかどうか、その点どうですか。
それでは、こういう聞き方をしましょう。基本的趣旨は変わらないと言っても、これに基づいて各社が教科書をつくってくるわけですから、そうすると、たとえば十行で説明しておったことを、同じ趣旨を三行に圧縮し簡略化した、趣旨は全く一緒だというのと、今度の場合とは違うわけですね。というのは、四十三年のときには「具体的事例によって」説明せいという趣旨のことはなかった。それを公害基本法が改定されて、そこへ一部改定をわざわざやって、「具体的事例によって理解する」ようにせいとわざわざ入れたのですから。今度はその分だけを削ってある。ほかのことは同じなんですからね。この削った趣旨は、「具体的事例によって理解」させるという点を削った理由は何ですか。
詭弁を弄してはいかぬですよ。あなた、先ほど四十三年の一部改定をやったのは、このたび公害対策基本法の一部を改正する法律など公害に関する諸法律が制定されたことにかんがみて、小学校及び中学校における公害に関する指導がその趣旨に即して適切に行われるようにする、そういう趣旨で学習指導要領をわざわざ改定をして、具体的事例を挙げて、「具体的事例によって理解する」ようにするということを、これはいわば教科書作成の一つの基準になってしまうわけですから、そういうふうなものを入れた。アップ・ツー・デートのものを使うか使わぬかというのは、それこそ教科書の編集者が具体的事例をどういうものにするかということであっても、問題は「具体的事例によって」という文をわざわ