私は、椎野氏と江川氏と会つたこともあつただろうし、それから椎野氏が江川君を覚えていてもいいだろうと思います。
私は、椎野氏と江川氏と会つたこともあつただろうし、それから椎野氏が江川君を覚えていてもいいだろうと思います。
椎野氏は、先ほどから申し上げましたように、九州の党内では有名な人であります。それから江川君は、椎野氏に比べればそう有名な人でもないわけであります。地区委員会の常任というのは、大体一つの地区ごとに多いところで二十名、少いところでは五、六人くらいいるわけであります。従いまして、江川君の方で椎野氏をよく覚えておつても、椎野氏の方で江川君を忘れるとか、あるいは覚えていないということは私はあり得るだろうと思います。
ありません。
お答えいたします。そのときにどきによつて多くなつたり減つたりいたしますが、大体四人ぐらいはいたと思います。
お答えいたします。大体あそこは地区委員会としましては、北九州一つになつております。従つて若松、戸畑、門司、それから八幡、小倉、これだけが大体北九州として一つの地区になつております。従つて椎野氏があそこに来られて常任の会を持つということになりますれば、大体四人の人は集まります。八幡は特に大きいところでございますから、八幡は十人ぐらいいたかと思います。それから戸畑は小さくて、門司も割合に少かつたと思います。全体として申しますれば、やはり二十人なり三十人ぐらいになる、こう思います。
おそらく若松に来られたことは何回もあると思います。
記憶しておりません。
ちよつと記憶にないのでございます。
私は椎野さんが来られたということも記憶がないのです。
私が若松で椎野氏に会つたことは、年代は記憶しませんが、はつきり記憶していることが一回ございます。それは国鉄の若松機関区に問題が起つたときに、椎野氏と会つたことがあります。
職場放棄ということがございましたが、あれの少し前です。
本部の組織指導部員であつたわけです。
二十二年の初めであります。
それで九州に派遣されたかつこうになつております。
九州にいたことは確実だと思います。
その辺は、大体始終旅行して飛びまわつておりましたから、昭和二十二年夏に若松にいたかいないか、こう畳みかけられてもちよつと……。
違います。
ええ。
終戦の年の十二月であります。
九州若松におりました。