ええ。
ええ。
田代文久氏。
国会議員です。
そのときは国会議員でございませんでした。
当時はまだ地方委員会ができないころだと思いますから、福岡県委員会の責任者であろうと思います。
ええ。
労働学校を設立するということが、特別の使命ということではないと思います。大体、九州地方で、九州地方委員会のもとで、いろいろ海員その他の……。
先ほど委員長の御質問に対してお答え申し上げましたように、私が本部の組織指導部員になりましたのは昭和二十二年の春からであります。従いまして今の御質問の、昭和二十年当時は本部の指導部員ではなかつたわけであります。
昭和二十年でございますか。
そうです。
九州にいたのはたまたま、先ほど申しましたように、九州の西日本石炭輸送株式会社本社に勤務しておつたわけであります。
九州で就職しておつたわけです。そうしてたまたま田代文久さんの紹介で入党したわけです。
共産党の中に名士があることが封建的かどうかは別といたしまして、やはり徳田球一とか野坂參三という人は党の中央委員でもございますし、椎野氏は今議長でございますから、一党の総裁であります。そのころは中央委員候補でございます。共産党員が六万か七万かあるうち、中央委員というのは二十五名でございますし、中央委員候補というのは十何名で、最高幹部であります。そういう意味合いで、私は名士と申し上げたのです。
私は椎野氏が江川君と会つたことがないだろうということを申し上げておりません。おそらく会つたことがあるかもしれない。しかしたとえば私の方は徳田球一氏をよく覚えておりますが、徳田さんの方は私なんか覚えていない。同じ党員であつても……。そういうことで、椎野氏の方は、江川君と会つても江川君を覚えておらない。江川君の方は椎野氏をよく覚えておるということは、よくあると思います。
それは委員長の御質問に対する答弁で申し上げましたが……。
再度申し上げます。いろいろ会合その他がございます。その会合の席上に江川君が出ることがあろうと思います。それから椎野さんが出ることもあろうと思います。そういうような会合なり何なりで顔を合せるということは私はあつたと思います。けれどもそういうような会合で顔を合せた江川君の方は椎野さんを覚えておつても、椎野氏の方では……。
お答えいたします。若松にしばらくおりました。それから鹿児島県にもしばらくおりました。
転々として居所をかえておりません。二つだけです。
持つております。
ございませんです。