二階です。
二階です。
二階は二つ部屋がありました。通りに面した方の部屋……。
さあ何畳ですか……。
会つた部屋はちようど鉄道の駅の斜め向いです。家に向つて右側はお寺です。それから家に向つて左側はかどの福住とか何とかいう一つの商社です。その間にありまして二階は二間だつたと思います。そうして道路に面した方の部屋の表から中に向つて右側に押入れがあります。そうして左側の手前の方に床の間があつたと思います。それからその一つ目と二つ目の部屋のちようど間ごろの右の端から下の方におりて行くはしご段があります。
服要の記憶は……。
洋服は着ておつたです。
椎野氏はあのときは背広を着ておつたと思います。
その記憶はちよつとないですね。
そのときめがねはどうかわからなかつたのですが……。それからまだはつきりしていることは、そのあとに椎野氏と会つたときに、家庭的なことまで私に話したことがあります。
はい。その後にその次の年の春ごろだつたと思います。そのときに何かの指導か何かで若松のやはりそこの場所に来たときに、あるいは何の用事で来たかはつきりわからないのですが、椎野さん、からだのぐあいはどうですかと言いましたら、椎野さんが、実はうちの女房が肺結核だ。それで私の目に結核菌が入つて、それでしばらく療治をしたとかするとかいう話は出ていました。それはおそらくどこかの病院に、はたしてそういう事実があるかどうか調べたらわかると思いますが、そういう女房が肺結核でぼくの目の中に女房の結核菌が入つてねということは、だれにでも言うことじやないです。
確信を持つております。
これに関連したことで事実だと思いますが、それをお話してよろしゆうございますか。
私がこの前の証書を終えまして、私に関してのことは、私はあくまでも責任を持たなければいけないということで、よりはつきりしたものを何かつかめるのじやないかということから、私北九州に行きました。それで私は若松の海員組合におりましたときに、海員組合には組合の部員も相当おりましたし、海上の共産党員は苅田町に集まつていて、また今北九州の方をオルグしております古谷という海員オルグもそこにおりました。そこで私がいろいろ話をしておりましたら、現在苅田町の町会議員もしておりますし、それに海員組合の出張所長をしておる藤本真一だと思います。その人がそこえ入つて来まして、よう江川君どうしたんだ。いや、実はこれらに今話しているけれども、でたらめだと言つておる。
終つたあとです。
藤本氏です。
共産党員ではないと思います。
もとシンバというようなかつことか、そのころ海員組合には何といいますか、小泉秀吉派と田中松次郎派とにわかれており、西日本は非常に共産党の勢力が強かつたのです。それで苅田というところは西日本の船員ばかり入るところなんです。そういうことから苅田または若松の党員でない組合の部員は反動といつてたたかれて、もう仕事のできないようなことがあつたのです。そういうことから、名目だけ共産党のシンパだ、また共産党へ秘密党員として入党したという形だけあつても非常に有利に進むわけです。そういうことから、ひよつとすれば入党したんじやないかと思います。私若松におるとき藤本真一の入党用紙を見たと大体記憶しております。それで、その人の言うには、実は昭和二十二年、場所
ええ。現在共産党は非常に資金に苦しい。それだから、それに対して、アカハタをやつているけれども、アカハタだけではどうにもならない。それに並行さして密貿易、密航をやる、それでその人材はだれにするかというところまできまつたというのです。それで私が藤本氏に、それじや当然私になつたんでしようと私笑つて言つたんです。ところが、いや、どうかなあと言つてごまかしたんです。
ええ。それからはつきりしたものが出て来たわけです。
はあ、大体わかると思います。