文部行政につきましては、これこそ法令によって、文部大臣に専属せしめられた権限と責任を行使する限りにおいては、内閣に対する関係というものは当然には出てこないと思います。ただ、慣例上、閣議を経なければならないとされる、運用されるものがございますから、その範囲においては、内閣との関係が出てこようかと思います。
文部行政につきましては、これこそ法令によって、文部大臣に専属せしめられた権限と責任を行使する限りにおいては、内閣に対する関係というものは当然には出てこないと思います。ただ、慣例上、閣議を経なければならないとされる、運用されるものがございますから、その範囲においては、内閣との関係が出てこようかと思います。
今の政府委員との応答を承っておりましても、文部省の役人であれ、どこでも同じでございますが、行政組織法あるいは文部省設置法等、それ以下の政令等によって定められた秩序に従って、自分の職責を行なうことが、直接国民に責任を負う姿だと、法令に従ってやるのであって、法令に従わない不当なる勢力の支配下にない。それを避けること、それ自体が国民に責任を負っていることだ。また、もし不当なる支配に屈して文部大臣以外の命令で動いたとするならば、そのことが法律にたがうゆえをもって、国民にその面の責任を負わねばならぬ、同じことであります。教師と文部大臣と文部省の役人と、何ら違うところはない。しかしこの不当な支配に屈すべからず。正当な支配には服しなければならない
先ほど来申し上げておるとおりでございますが、私が終始申し上げているのは、教科、教育課程について、教師に自己の判断で行動する範囲がないと申し上げたことはいまだかつてありません。逆に申せば、そのことも申し上げたことですが、学校教育法に規定するところの教諭は、教育をつかさどるということは、それは建前だが、終始法令の制約は受けざるを得ない。その法令とは何だということは、学校教育法二十条、二十一条ということについて、文部大臣に教科あるいは教科書検定ということが留保されている。その留保されている権限に基づいて、定められたことに従ってやらねばならないという条件づきで、教諭は、教育をつかさどるのだと、こういうことを申し上げておるわけであります。
直接国民に責任を負うと言われることですけれどもそれは一体何だということを、私は先ほど来私の理解に立って申し上げましたが、ただ、直接国民に責任を負うと書いてあるから、何か責任を負うことらしいということは、それだけで、すべてが解明されるものでなくて、全国民に対して責任を負うということは、裏を返せば主権者の意思で定められた法律制度に従って行動するのだ、そのことが国民に責任を負うということであり、それに違反すれば、国民にかわって国会を通じて責任が追及されると、この相互関係を全国民に対して責任を負うということだと私は解します。
これは前文自体で書いてもおりますし、書いていなくてもそうだと思います。
きわめて自明のことだと申し上げるわけであります。
前文にも書いてありますから、きわめて明瞭であります。かりに書いてなかったと仮定しましても、教育に関する基本法という以上、憲法の趣旨を受けておることは自明であろうということを申したのであります。
これは私の承知しておりますところでは、終戦になりまして教育勅語が廃止されました。教育に関して基本的な事柄というものが、いわば空白になった、新しい憲法はむろんできましたけれども、憲法そのものが教育の基本ともなるべきことを比較的具体的に詳しく規定しておりませんので、新憲法下の教育がどんなふうな方向づけであるべきかというものがないということで、教育刷新委員会の人々が慎重協議の上に原案を作り、それを政府案として提案し制定された経過にかんがみましても、新しい憲法下の、先ほど政府委員は教育憲法ともいうべきものだと申しましたが、そういう建前に立って立案せられ、審議せられ制定されたものと心得ております。
そういう説があったことは聞いております。
そういう説があったことを聞いておりますが、だれがいつどういう場所で、どういう具体的内容で言ったかということまでは承知いたしません。
さっき申し上げたとおりでありまして、田中さんが、そう言われたかどうかという意味においての記憶は念頭にございません。
学問の自由は、国民全体にあると思います。また、それが学問の自由という名において具体的に尊重される場は、一番幅広いのは大学だと理解されておる、こう思います。教師に研究の自由があることは、私も同感であります。
学問の自由は国民全部にあると思います。ただ、いわゆる学問の自由というのは、主として大学における学問の自由について大学の自治との関連においても理解されるというふうに承知いたしておるのであります。その意味で教師に学問研究の自由があるということは当然のことだと思います。
誹謗しておるというつもりでこれに触れたことはありません。研修の自由があることは教師の個々の自主的な研修でありましょうとも、組合みずからが研修することそれ自体、研修、勉強、学問の自由の範疇に属するものと思います。ただ、私が日教組の教研活動について触れますときは、常に申しておりますのは、日教組の全国大会で定め、その定めました教研大会の趣旨が、文部省の定めた教育課程を骨抜きにする、そのための研修だという意思を表示しながらやるところの研修は、そのことが教育の現場にはね返ってくることをおそれますがゆえに望ましくない、こういう趣旨で批判したことはあります。
文部省が定めました教育課程を骨抜きにするという目的をもってやられる教研大会には弊害があり、そのことを中心に批判をいたしました。
私の承知しますところでは、日教組の全国大会で教研集会の大会を催すことを常に決定している、こう承知いたしております。
そのこと自体にも私は疑問を持ちます。と同時に、組織の機関で目的を定めて教研大会を定め、そうして実施される、その結果が教育の現場にある意味で反映することありせば望ましくない、こう思いますから批判をいたしております。
一般的に申せば、学問研究の自由に制約があるはずがないと思います。その意味における自由は教師にもあると思います。しかしながら、休憩前の御質疑に対しましてもお答えしましたように、教師は小中高においては、その学校におきましては教科に関することは文部大臣が定めなければならない、それに準拠して教えられねばならないということは法律上の要請だと思います。したがって、その法律上の権限として定められた根拠に基づいてあるところの教育課程そのものを骨抜きにする目的をもっての研修というものは、自由ではございましょうけれども、教師なるがゆえに好ましい、好ましくないの批判というものは当然あるべきものと思います。
先ほど来申し上げます日教組の教研大会というものは当然批判さるべき対象だと思います。一般論として国民すべてが学問研究の自由を持っておる、学問の自由を持っておるということは、私もお説のとおりだと思います。ただ、ここに公務員として、特に教師として——教師と言いましても大学の教授じゃない、小中学校、高等学校の教師という立場においてものを考えます場合、その教師なるがゆえに組合を作れる、また、組合員であることは組織の決定には忠誠を誓わざるを得ない立場にあると理解しますが、正規の機関でその教研の目的をはっきり定めて教研行動をやるという場合に、教育課程は法律に基づいて文部大臣が定めねばならないとしてあるから、定めておる教育課程そのものを骨抜きにする
政府の言うこと、なすことであろうと、文部省のやっておることについて批判をするということそれ自体を私は禁止せねばならないなどとはひとつも思いません。しかし、いかなる国民といえども、自分の研究成果について、結果について、それが発表され、行動に移された場合に、批判されることはこれは当然のことであります。そのことを批判されることそれ自体は、国民の学問の自由、研究の自由を制約することではないと思う。ただ、ここに先ほど申し上げましたように、教課に関することは文部大臣がこれを定めろということになっておる。それに基づいて教育課程が、基本が定められ、学習指導要領が定められておる。そのことを対象として骨抜きにするという意思を持っての研修が教育の場で具体