少し具体的に申せば、ある教師が勉強をして、——小林さんの引例されましたことを拝借に及べば、学習指導要領それ自身を勉強してみた、しかし、この学習指導要領は自分としては反対だという結論を持った。それまでは勉強の自由であり、何ら異論を差しはさむ余地のない勉強の態度だと、その結論が出たからといって、さらに学習指導要領そのものと反することを現に行なうという場合には、当然批判さるべきであろう、こういうことであります。
少し具体的に申せば、ある教師が勉強をして、——小林さんの引例されましたことを拝借に及べば、学習指導要領それ自身を勉強してみた、しかし、この学習指導要領は自分としては反対だという結論を持った。それまでは勉強の自由であり、何ら異論を差しはさむ余地のない勉強の態度だと、その結論が出たからといって、さらに学習指導要領そのものと反することを現に行なうという場合には、当然批判さるべきであろう、こういうことであります。
学習指導要領に、まあ学年別にこういうふうに教えるということがあるといたしまして、その指導要領に書いてある基本線に沿って、その趣旨をかえって充実させる意味において取り上げられたことは別に違反しているということにならぬと思いますが、学習指導要領に基本線として定められているそのこと自体を違った——たとえば一年生ではこういうことを、二年生ではこういうことをと学年別に分けて書いてあると記憶しておりますが、二年生、三年生で教うべきことを一年生で教えるほうがよろしい、そういう勉強の結果であったら、学習指導要領が改訂されない前に、自分の主観で、三年生で教うべきことを一年生で教えるということは当然批判さるべきだと、そういうことになります。
今、例外的な場合を指摘されましたが、それは認められておるという意味において、それ自体が批判さるべきことではないということであって、一般論と申し上げれば、さっきのように考えるわけであります。
御質問の趣旨を十分に把握してないような気持でございますが、教員組合、職員団体である教員組合を作ることは自由であって、それ自体に一点の疑いも、疑問も私は持ったことはありません。そして法律に定めるところの、もろもろの勤務条件の維持、改善について、法律で保護される性格を持った団体として行動することは、これは自由であり、そのほかに、事実問題として、その教員組合という団体が何をしようとも、法律の範囲内である限り、かれこれ言われるべき筋合いでもあるまいと。ただ、職員団体として保護されないであろうとは思いますけれども、事実問題は、かれこれ言うべきことでもないと思います。組合は自由に作れる、何人もこれをはばむことはできないという建前になっておると承
今も申し上げましたように、団体として保護される範囲内ならば、法律に規定したとおりの行動半径であるべきであり、その他のことについて集団として行動しますことは自由であると思います。組合としての法律の定むる行動半径以内の実際行動が、法律の範囲内でなければならぬことは当然といたしまして、そのうち内にある限り法によって保護される、行動半径以外のことは自由だと思います。
御質問の焦点がちょっと……。もう一度お願いします。
それが法律上禁止、制限されてない限りにおいて事実上、団体として行動しようと、それは自由だと思います。
教育をよくするという包括的なお話でございますので、ちょっとお答え困難ですけれども、今引例されました文部省と教員組合との団体交渉というのは、制度上当初は認められておった時期があったと思います。法律が改正せられて、それがなくなった、そして今のたとえば地方公務員法という法律によって、職員団体の行動半径が附記されたその限りにおきましては、法定された行動半径以外の事実上の行動というものは、法に触れない限り自由であると思いますが、その範囲においては、法律上の保護は集団としては受けられない範囲の事実行動だろう、こういうふうに思います。
審議会のメンバーの中に、教職員組合の推選したものが入っておった時期があった、今ないのはどうだということのようでございます。これは今がまともな姿だと思います。
教員組合というのは、法律的にその集団としての行動半径が規定されておる。それが職員団体であり教員組合だと思います。この団体は、その行動半径に関する限りにおいての集団であって、審議会等の委員のメンバーに、職員組合の、教職員組合の代表者が入るということは性格が違うものと、私は思います。もし教員の専門的な経験を生かす意味において、その意味において学識経験者として審議会等に入ってもらうとするならば、たとえば学校長、たとえば教育研究団体の代表者、そういうがごとき人を、その角度から選ぶのが当然であって、職員組合から選ぶということは筋が違う問題だと、私は思います。
今お答え申し上げたような趣旨が混乱しておったのじゃないかと想像します。
先ほど来、政府委員との質疑応答を通じまして、政府委員が教育委員会月報の発行及びその内容について、政府委員が責任があると、こう申しておりますけれども、この責任者は文部大臣だと思います。それは文部省に著作権があるということである限り、文部大臣が責任を負うことはこれは当然だと思う。それからその内容につきましても、一々私が検閲するわけじゃむろんございませんけれども、内容そのものについても文部大臣が責任を持つべき課題だと思います。また、法案審議中でございましょうとも、政府が閣議で決定をして御提案申し上げた以上は、政府としてはそれを正しく理解してもらう努力をすることはこれは当然だと思う。その意味において、文部大臣の補佐機関という立場で、所管大臣
署名入りでございましょうとも、文部省の名において出版し、発売をして配布しておるというその中の論説であります限り、やはり文部大臣が責任を最終的に負わねばならぬものと思います。それはむろん一々見ておるわけではございませんけれども、見ないでそういうものが、そういう内容で発行されてもよろしいという態度をとって黙認してきておるという意味においては責任を負うのは当然だと、かよう思います。ただ、この「一部の者」云々という表現は、註釈なしに表現されたところに誤解を生むおそれはあると思います。本来ならば、文部大臣がいつ幾日、委員会なら委員会でこう言っておる、国会で言うとおりだと思うというふうな表現ならば一番無難だったろうと思います。
現行制度そのままでも実質的には国定といえるかもしれないということは、一昨年でございましたか、衆議院の文教委員会のどなたかの質問に対してお答えしたことはあります。今でもそう思っております。その意味は、国定ということの定義ですけれども、戦前のいわゆる国定教科書なんという意味じゃなしに、内容が学校教育法に基づいて検定される、検定されたもの以外には使ってはならないと法律に明記されておる、あるいは文部省が著作権を持つもの以外は使ってはならないということが建前になっておることは、それ自体が内容だけからいうならば、国の立場で義務教育諸学校の教科書というものは、内容、基本を定めて国民に責任を負う、そういうことになっておるという意味において、それを国
さっきも申し上げたように、国定ということが一体定義が何だということが問題ですけれども、もし国定ということを、国の立場で検定を通じて、その基本的な線は国の責任で定めねばならないということを国定だというならば、現行法そのものがまさにそのことを明記して認めている。それは私だけの個人的な見解でどうなるというものでなしに、学校教育法第二十条ないし二十一条、及びそれに相照応します中学校の規定もあると記憶しておりますが、そのことを目して、国の立場で内容を定めるということが国定だとするならば、今の現行法そのものも国定だと、これは私はもう数年来同じ見解を申し上げ続けてきておることであります。
両方とも正しいのでございます。先ほども申し上げましたように、国定の定義を、私が前提として申し上げた意味で申すとするならば、学校教育法二十条、二十一条を通じて、実質的には現行法そのものが国の立場で内容をきめろとなっておるのだから国定といえるでしょうと、そういう定義に基づく国定であります。いわゆる国定化というのは、私の理解に従えば、すべて文部省が著作権を持ち、そうして全国一種類にして、協賛してよりよき教科書を制作しようという意図をなくした姿だと私は思うのですけれども、そういう定義の国定化ならば、文部省ではだれも考えておらない、そういう意味において政府委員の言いますことも、私の言うことも両方とも正しい、こういうことをお答え申し上げます。
今言われた意味では私ははっきりは知りません。いわゆる国定化というものは戦前の姿を意味しているものと、そう考えて、国定化なんていうものはする意思は毛頭ございません。また、先ほどお答えした私の言う現在でも国定であるという意味は、学校教育法に明文で定められていること、そのことを実質的にいえば国定といえるでしょう、こういうことでございます。新たに法律を改正して現行法と違ったことをしよう、こういうことじゃないと、こういうことであります。
お目にかかると約束して、約束の時間にその約束を果たさないことは適当ではないと思います。
記憶しております。
質疑応答を通じまして、その用語のその部分が適切でないと思ったから発言をしました。