教育勅語は勅語としてもう全体が死んでいるのですから、議論の外だと思います。その中見の徳目がどうだというお尋ねだとすれば、徳目については以上お答えしたとおりに理解しておりますと、まあこういうことでございます。
教育勅語は勅語としてもう全体が死んでいるのですから、議論の外だと思います。その中見の徳目がどうだというお尋ねだとすれば、徳目については以上お答えしたとおりに理解しておりますと、まあこういうことでございます。
憲法が変わったということは、それ自体国民全体の決意がそこにあるということだと理解します。その憲法の趣旨に従って教育基本法もある、これまた国民の意思だと思います。学校教育法その他も今後の研さんによって改善されていくということはあり得ましょうけれども、現在あるものが国民の意思である、それらの国民の意思に従って、忠実に国民にサービスすることが文部大臣以下の教育関係公務員の主権者たる国民に対する態度でなければならぬというふうにとらえまして申し上げておるのでありまして、個人的な感想とか、一代議士としての考え方とかいうことはむろんございましょうが、そういう感想が如実に教育行政の中に立ち入ることそれ自体が許されないことだ、あくまでも憲法、教育基本
私は終始率直にお尋ねしているつもりでございますが、個人的な一代議士としての意見がどうだと申し上げた意味は、立法論理的な立場に立ってのものの考え方、これは、代議士として当然あるべき要素だと思うのでございますが、それをあえて言いましたのは、文部大臣という立場に立たされた以上は、あるがままの憲法そのものをしょって学校教育法、教育基本法その他の制度に従って行動すべきだということを中心に申し上げたのであります。憲法以下の諸制度の許す範囲内において、建設的な前向きの考えがあるならば、それを展開していく努力が、むろん先ほどお答えした中には含まれておるべきことは当然であろう、そういうことを申し上げたつもりであります。
そう思っております。
その点は先刻来お答え申し上げておるように、教育勅語は死んでおりますし、旧憲法も死んでおります。だから、旧帝国憲法の中において夫婦の民法上その他の社会的なあるいは家庭的な立場がいかがであったかということは、旧憲法のときにそうであったということであって、それから新憲法下におきましては、今は新憲法下の夫婦の立場というものが当然憲法的に是認されるということは、もう大前提にあって、それに触れないだけでございまして、相和するという、仲よくする、相互に対等の立場で仲よくしていくんだというそのことは悪いことではない、こう申し上げておるのであります。「兄弟ニ友ニ」と申しましても、家族制度それ自体が旧帝国憲法下には、かれこれ申し上げぬでも御承知のような
過去においてはそういうものがあったという前提においてあれが言われておったかもしれない。しかし、新憲法下におきまして、兄弟仲よくという場合、旧憲法時代にそうであったものそのままが今兄弟仲よくという中身であるということはあえて注釈を待つまでもなく、たとえばおっしゃるとおりの兄弟仲よくということを言うならば、それ自体が憲法違反だということにとどまるのであって、それは言わずもがなのこととして、それを大前提において申し上げておるのが、兄弟仲よく、あるいは夫婦相和するということとして申し上げていることを御理解いただきたい。
この憲法が新たになる、新たになったがゆえにこの制度も新たになったということは、国民すべて承知しているという前提に立ってものを申すことも可能だと思うわけであります。仰せのごとく、全体として有機的関係にある教育勅語の中のある徳目だけを抜いて言うことは、いろんな連想がくっついたままで受け取れるおそれがあるからという懸念をおっしゃっているように思いますが、それはそういう懸念があるとも言えないことはないとむろん思います。ただ、夫婦相和する、あるいは兄弟仲よくするということが、そういう言葉で他の日本の小説家の著書の中に出てくる、あるいはバイブルにそれがあるかどうか、私はつまびらかにしませんけれども、外国の人の言っている中にも出てくるということを
教育勅語が教育勅語として今でも生きている前提において、ものを言ったことはいまだかってございません。ただ、教育勅語の中にあるあの徳目そのものは、今でも実質的には何ら矛盾を感じないものがあるじゃないかという気持のことは言ったことはございます。
そのとおりではございません。千鳥ケ淵の辺の問題あそこがトンネルという形になりましたが、これについては新聞をお読みになりましたような意味合の意見は建設大出からございました。それに対して私は、この問題については、今の文化財保護法に若脚して文化財というものを保護する、文化財についての判断は保護委員会の委員が独立して職権を行なうということになっている制度のもとにやっておるのだ、したがって、実際の問題としては、二年越し文化財保護委員会と道路公団との間に相談をして、それぞれ国家目的を持った仕事をしておるわけだから、そこら辺を十分にお互い立場を考えながら相談しようと、三年越しの相談がまとまったのが今の案で、それを現に実行しつつある。そういうことだ
その問題について、今、具体性を持った内容について申し上げることはございませんけれども、道路の問題ももちろんですが、工場敷地の造成、あるいは住宅建設用地の造成、その他新しい都市造成等に関連をいたしまして、日本全国が埋蔵文化財保有地であるようにも思われるぐらいの日本においては、これはたいへんなことだ。そこで、何とかこれに対する対策を考えたらどうだという御議論は、衆議院等におきましてもございまして、そういうときにもお答えしたことですけれども、ちょうど奈良の平城宮跡の処置につきまして、むしろそういう顕著な地域であると思われるところは、国で所有権を取得したらどうだろうというふうな御意見等もありました。予算上も部分的でございまするけれども、実現
そのとおりでございます。この前の委員会でもお答え申し上げましたように、この認証官制度を御提案申すにつきましては、事の起こりは教員の給与そのものの一般的な程度がこれでいいかどうかということから端を発しました問題でありまして、大学の管理、運営などという課題とは全然別個のものでもありますと同時に、文部省内で論議しますその経過から申し上げましても、この前のお答えどおりでございまして、全然関係なしと申し上げ得ると思います。
そのとおりでございまして、私がここで確約申し上げるから初めて関係がなくなるんでなしに、この認証官制度それ自体は、全然別個の法体系のもとに御審議願う過程において国民全般が御理解いただく課題、その意味で関係ないと申し上げるのでございまして、私自身がここで関係ないと申し上げたから初めて関係がなくなるという課題ではない。その意味において関係なしと申し上げておるのであります。
そのとおりに考えております。幾らか補足さしていただけば、もちろん大学における学問の自由あるいはそれに関連する大学の自治ということのゆえに、すでに御案内のごとく大学の管理機関の申し出に基づいて任免権を行使するという制度に相なっておるわけであります。したがいまして大学管理機関の申し出がないのに任免ということは、これは制度上あり得ない。拒否権ありといたしまして番、大学の管理機関の申し出についてノーと言う場合があり得るということであって、管理機関の申し出以外のものを拒否すると同時に任免するという権限は認められていない。同時に拒否権ありと申し上げる趣旨は、憲法第何条かをはっきり申し上げかねますが、憲法は国民が公務員を選定し、これを罷免する権利
任免権はこの法案に関します限りは内閣に移るわけでございまして、いまお話しの拒否権の課題も内閣の課題として理解されることになる、かように思います。
それはこの任免の問題に限らず、内閣に付すべき問題と共通の課題であって、一致しなければ結論の出るものでないと私は理解します。
そのレア・ケースをお取り上げになってそう言われれば、一見そう見えるわけですけれども、元来この認証官という手続をとりますゆえんのものが、教育者の国家的な評価というものをもっと高めるという手段として認証官といろ任命の方式をとるわけでございますから、文部大臣から任免権が内閣に移りますことは、それ自体任免を丁重に扱うということでこそあれ、拒否する機会がより多くなるとかあるいはことさら異を立てるということがあるはずがないという前提に立って、初めて任免手続を荘重にすると申しますか丁寧にするという本来の趣旨が生きるわけなものでございますから、御懸念のようなことはあり得ない、またあらしめてならないという課題であろうかと思います。
考え方としまして、任免権が文部大臣から内閣に移ることそのことが、大学管理の問題に関連を持たせるためのものであり、また持つのだという御見解は、私はちょっと理解しにくいのでございます。制度の上では検察、裁判官といえども、閣議決定を経て任免をする。またその場合といえども拒否権というものはあり得るというのが学者の通説のように伺っておりますが、だとしますならば、三権分立の理念から申しましても、大学の管理機関の進達しました案件が拒否されることがあるという前提に立つ限り、それが文部大臣でありましょうとも、閣議でございましょうとも、特にことさらなる拒否というものが起こるのだという説法で申し上げるべき筋合のものではない。あくまでも文部大臣としての良識
閣議は閣議として一体をなしてむしろきまる機関だと思うのでございます。文部大臣に拒否権ありとする私の前提に立って考えましても、むしろ文部大臣だけで拒否権を行使する場合よりも、より慎重な結論が生まれ出ることが当然期待される本質を持っておるのじゃないか。文部大臣拒否権ありといたしまして拒否したことそのことは、全国民の目から見てそれが妥当であるという支持がないならば、その拒否をしました文部大臣の運用上の政治的責任は、主権者たる国民から糾弾さるべき課題として残ると思います。そのことは閣議でも同断でありまして、閣議そのものが同じように不当な判断を下してノーと言ったとするならば、その国民に対する、あるいは憲法の趣旨に対する責任というものはひとしく
憲法理論として十分自信を持ってお答えしかねる課題でもございますが、一応私なりに考えておりますのは、天皇の認証行為とは、ある事実について、天皇がその事実のあったことを確認し証明する国事行為だ、そういうものであろうかと思います。
概念論としては、認証ということがなくても任命ということはあり得ると思います。ただ、一つの様式行為としての認証が伴うことによって完了する。その意味における任命の手続の慎重さが一つ加わっておる状態だ、こう思います。