立法論を述べることは自由だと思います。
立法論を述べることは自由だと思います。
今おっしゃる限りにおいては、制約を受けるはずはないと思います。
そのとおりに思います。
影響するとおっしゃることがどういう意味か、はっきりわかりませんけれども、表現の自由、言論の自由あるいは学問の自由、そういうものはそれぞれあるので、たとえば、ある学者が何か意見を述べたことに、学者であれ、学者でない人であれ、それに対して批判的意見を述べる、これまた自由、それぞれの自由が、共存するのであって、その批判をされたことによって、その相手の自由権が制約を受けるという関係には立たないと、こう私は思います。
影響というのが、基本的人権、相互の関係においての影響いかんということならば、影響は同じだと思います。
学問の自由というのは、私の理解に従えば学者に限られない。全国民が学問の自由を保障されておると思います。
国民全部だと思います。
学問の自由を保障するという、保障ということ、それは主として、私は国民全体と思いますけれども、主として、国家権力がこれに制約を加えないという意味合いにおいて保障という意味がはっきりしてくる。機能的に申し上げて、保障すべき機能というものは、消極的な表現ですが、国家権力によってこれに制約を加えないと、そういう点が主眼点かと思います。
影響するところは異ならないと思います。言論の自由、表現の自由という、国民に与えられた立場においての批判、何人であろうと、その批判においての影響というのは同じことだと思います。
教育基本法を守らねばならない使命が文部大臣という立場にはあると思います。その立場に立って、倫理綱領の協力者として、考え方を述べられた人々の言にある教育基本法との関連における認識の誤まりというものは黙っておれない、その誤まった考え方に立っているということは、批判し、指摘することが、私としてもなすべきことだと思って批判をいたしております。
そういう考えであります。
国務大臣(荒木萬壽夫君) そうは思っておりません。国家権力によって制約を加えるという作用ではございません。日教組の教師の倫理綱領という印刷物そのものに名前を連ね、協力者として共鳴されているというその形を、私は妥当でないと、ことに現職の大学教授がそのことを是なりとする立場をとっておられるというそのことが、あたかも教育基本法第八条に反する考え方に立って行動理念を打ち出されている日教組の考え方そのものを、いわば保障するような意味に関連を持ってくることをおそれますから。
批判するということは、国家権力によって制約を加えるという作用ではないと思います。
学問の自由という自由権の行使の姿、結論である意見そのものに批判を加えるということであって、国家権力に基づいて、その意見なり表現なりに制約を加えるという作用ではないと思います。
国家権力の作用とおっしゃいますが、公務員であれ公務員でないにしろ、意見を述べるということは平等に認められている立場だと思います。
権力の作用とおっしゃることがよくのみ込めませんが、ある意見に対して、学者の意見であれ、そうでない個人の意見であれ、その意見に対して、教育行政上の立場から過当でないときに、それに反論を加え、批判をするということは権力の作用と解すべきではない事実行為だと思います。
ある具体的な結果を伴わせ得るような法的根拠に立ってという意味において、具体的な国家権力がある、その権力の作用として何をした、どう言ったということではない。国家公務員の立場にある文部大臣としても、一個人としても同じことを言うであろうが、文部大臣としても口を開いて同じことを言ったという意味においてはそれは違いますけれども、批判ということについて、憲法との関連において言えば同じことだと、かように思います。
文部大臣としての発言と個人としての発言、発言の立場が違うということはありましても、批判するという作用は同じことだと、かように申し上げるのであります。
文部行政の代表者としての立場に立った批判であるということだと思います。また、その立場においては、教育基本法の解釈につきまして、文部省の立場で判断したそのものさしによって、ある意見に対して批判する、反論を加えるということも当然のことであるという意味合いにおいて批判している、こういう姿だと思います。
いや、別に逃げるとか何とかいうとことを申しておるのではありません。権力の作用としてどうかということをおっしゃいますから、そこら辺がちょっと理解しにくいので、私の理解する限りのことを申し上げておるわけでおります。