そういう課題となって現われると思うのですが、具体的にどうだということを申し上げるのは早過ぎると、こう思います。
そういう課題となって現われると思うのですが、具体的にどうだということを申し上げるのは早過ぎると、こう思います。
手をこまぬいているわけにいかぬと思いますけれども、そこで各都道府県の立場において、自分の行政区域内における現実の事態に即して応急的な措置をなすべきであり、なし得るという建前になっていると思います。それが設置責任者の責任の範囲だと。しかし、その結果が、くどいようですけれども、さっきの御質問にお答えしたようなことをつけ加えますれば、それは応急的にはそうですけれども、その結果が三十八年度を通じまして、当該県としては、全体的には財政上非常に窮屈だから、ほかの行政が停滞してしまって困る。だから何とかしなければならぬという課題は出てくるかもしれない。それに対して、国の立場でどうするかという課題は残ることがあるだろうということを申し上げたのでござ
今具体的に必ずそういたしますというお約束はちょっと僭越だと思います。そういう課題となって現われるであろうことは念頭に置きながら、都道府県の教育委員会等から、あるいは知事会等からの——自治省として、文部省としましても、具体的に結果をとらえてのいろいろな課題が出てくるであろうから、そのときは十分に誠意を持って相談して、善処すべきものはするという心がまえで、今としては進行状況を見守るという以外に方法がないであろう。また、いたずらに部分的に突つき回してみましても、全体としては把握できない道理でございますから、しばらく静観をして実態をみたり結果をみながら善処するという、こういう順序であろうと思います。
新聞紙上で知っております。
これはちょっとそのことをお答えするつもりで政府委員から知恵を授かっておるわけでもなし、自分自身でも実は具体的に検討しておりませんので、相当考え方によればむずかしい問題でもありましょうし、分析的に専門的に調査した結果に基づいてお答えしなければお答えにならぬと思います。政府委員がもしお答えできれば政府委員からお答え申し上げます。
それも新聞等で承知いたしております。
合理的な見解をちょっと申し上げかねます。ただ直観的に申し上げますれば、幼稚園の事例をお述べになったのですけれども、有名な幼稚園に入れたいと思って、家庭教師まで雇って大騒ぎをしておるのはこれは親の責任であって、家庭教育の課題として考えられるべきものじゃなかろうかと思います。
冷笑しっぱなしというわけじゃありません。家庭教育の課題として両親学級でも作って、家庭教育にもっと力を入れなければいかぬじゃないかということも指摘されるくらいの問題があるとは思います。しかし、それは学校教育それ自体の問題としては取り扱いかねることじゃなかろうか。家庭教育の問題である中学の入学試験についての騒ぎも同断だと思います。高等学校につきましては高校急増対策ということが相当の解決策になり得ると思いますが、これとても反面にはやはり親の責任に帰すべき、善処してもらうべき分野も相当あろうかと思います。大学の入学試験については試みに、すでに御案内のとおり、文部省と大学と高等学校と一緒になって試みのテストを、安定した状態において受け入れられ
いろいろと教育諸条件といわれる中に、試験地獄とつながる検討すべき課題があろうかと思います。また、ある学校を——大学なら大学を出さえすれば就職は保証される、そういう形式的な基準にしたがって社会の職場の受け入れが行なわれ、職場においては能率的なことが二義、三義的に考えられて、給与も生活給的である、いわば悪平等である。だから、そこに一応世間で何々大学を出たということでありさえすれば、生一派が一応保障されるがごときムードが戦後横行しておると思いますが、根本的に言えば、私はそういう点にもつながる試験地獄の様相であると思います。それについては、今としては特に子供の親が、自分の最愛の子供の健康なり何なりを考えて善処するという責任の範囲に帰すべき課
そういう意味ではございません。今始まって今後に対処すべき問題とは考えません。旧憲法時代からあることであり、戦後また新たな様相をもって、いわゆる試験地獄の様相が日に日に激しくなりつつあるという時代だと思います。したがって、それに対する対策としましては、先刻来申し上げておるあらゆる分野について考慮がなされ、具体的施策もなしていかなければならぬという意味において、文部省の所管します限りにおいてのベストを尽くさなければならない、これは当然の責任だと思います。それだけでは解決できない、いわば国務大臣という立場において考うべき課題、国全体、政府全体として相協力して対処しなければならぬ課題もそこにひそんでおるであろうということを、ついでながら申し
先刻御披露しましたように、大学の入学試験について特に問題が深刻であろうと想像されます。中教審からの答申もございますように、その答申の線を念頭におきながら、具体的な対策としましては、大学の入学試験の問題をもっと合理的な線に乗せるべきであるという考え方のもとに、先日その担当の団体が発足するような段階にきたことは、御案内でもございましょうが、そういうことを具体的にはやっているのであります。高等学校の入学試験等につきまして、具体的に何かをやっているかどうか、政府委員からお答えを申し上げます。
ございません。
必ずしも全部の問題を解決できないと思います。根本は、何としてもさっき触れましたようなことももちろんでありまするし、先ほど引例されましたような忌まわしい現象が起こるということを連想いたしましても、これはデモクラシーの消化不良じゃないか、根本にわだかまっている、間違いのない底流は、デモクラシーとはエゴイズムであるというふうな、ばく然たる気分が漂っていることは事実だと思いますが何さま民主主義の形で発足しまして以来、外国に比べれば、はるかに年数が浅い、経験が浅い、民主主義とは何ぞやという、ジャパニーズ・デモクラシーとでもいう意味における身についたものが、まだ完全にないということの混迷もまた私は試験地獄ないしは児童、生徒のいろいろな非行事件等
助成金とおっしゃることは、私学の経営費の中で経常費の中で経常費に属するものを国庫支弁でもって補助金として支給するという一般論でございますと、どうも今日も私はそれは適切じゃなかろう、こう思っております。たたし、いつかもここで申し上げたと思いますが、たとえば理工系の教育をするのには非常に金が膨大にかかる。しかも国民的な要請は、国公、私立を通じてその養成に力を入れなければ、国全体、民族全体とし不幸につながると考えられる。そういう立場から、私学に特にそのことを国の立場で、全国民的な立場で要請するという場合には、その幾らかを国民全体の何において税金支弁で経常費もある程度見るという課題は出てくるであろうという考え方から、従来わずかながら助成金を
赤ん坊といえども、児童、生徒といえども、人間としての人格を持っておる、そう思います。
違ってないつもりで申しております。それは私の、郷里の市長をしばらくしておりましたときの話を引例して申したことでありますが、終戦直後、きのうも、きょうもあすもというふうに児竣、生徒が列を作って全校をあげてレクリエーションに出かける。一体これは毎日のように続くのだが何だろうというので、教育課長に聞いたことがあります。その教育課長の言によれば、民主教育でございますから、生徒会を作らせました。生徒会の決議だから、その決議には従わねばならいというので、きょうもレクリエーションに出かけているところでございましょう、こういう話を当時聞きました。終戦直後、昭和二十一年のことでありますが、そのころの小、中学校の教育のあり方については、ほんとうに全国民
間違いありません。
そういう状況であったことも承知しております。
きょうもあすもレクリェーションという、事柄それ自体がレクリェーションそれ自体がけしからぬと、その当時思ったわけじゃむろんない。連日、そういう状態であることは、はたして教育効果という点から見て妥当であろうかという角度から、教育課長に実情を聞いて、そして今披露しましたような回答を受けたのであります。むろん教材もないが、不備であったことは私も当時承知しております。焼け野原になって、会社の社宅のあいたものを破れ小屋を提供してもらって、ようやく雨露をしのぐという状態でありました。したがって、まずなすべきことは、子供たちに校舎を提供することだと、こう考えて、十六の学校全部を、バラックでありますが、起債を起こしまして建てた。机、いす等も焼けてしま
言葉の適否は御批判があろうかと思います。私がそういうことを、今日でも引例しますゆえんのものは、民族的な歴史の歩みの中に、デモクラシーというものに自然の努力が実って到達したという場面ではありませんから、敗戦ということによって、デモクラシーというものが、いわば与えられた、それを認めて今日に来ていることを否定はしません。ですけれども、デモクラシーの考え方で今日にあります民主国家は、その民族みずからが、数十年、数百年の歴史の中に、民族的努力によってつちかわれて到達した境地だと思います。それに比べれば、デモクラシーのよさを思いますけれども、未熟であるということは、これは何人も否定できないと思います。だからそれを熟知させていく努力こそが、文部大