言明どころか御念に及ばない必然性を持った当然しごくのことと心得えておりまして、今の御質問にお答えするような課題は念頭にないくらいに、空気のような当然のものと心得ております。
言明どころか御念に及ばない必然性を持った当然しごくのことと心得えておりまして、今の御質問にお答えするような課題は念頭にないくらいに、空気のような当然のものと心得ております。
私は毎度申し上げておりますが、これまた当然のことでございまするけれども、憲法、教育基本法以下の法律に基づいて文教行政というものは行なわれねばならない。お尋ねに答えるとすれば、憲法はもちろん教育基本法はもちろん、学校教育法その他もろもろの法律、直接、間接関連のありまする法律に基づいて行動すること、そのことが主権在民の憲法の趣旨に従って行動しているゆえんだ。いまだかって逸脱したことはないと考えております。
私個人が主権在民だ主権在民だとどこかで言うたからどうなるという問題じゃないと思います。その主権在民の趣旨は、教育政策、行政を行なうにあたりまして守らねばならない。積極消極両面を含めた趣旨に従ってもろもろの法律ができておる。もし足らないところありとせば、これこそ立法論の立場においてその法律そのものを補っていくというやり方によって、その線に、らちに沿って行動するということが、積極消極両面の憲法の趣旨を徹底するゆえんだと思います。学校教育の場をかりにとって申しますならば、教科書は文部大臣の検定を経たものを使うということによってある意味では制約を受け、責任を負って教育が行なわれておる。そのもとは学習指導要領にある。学習指導要領は、数百人の専
教師の一人一人が国民としていかなる思想を持ちましょうとも、これは憲法の趣旨に従って自由であることは論を待たないと思います。ただ教師なるがゆえに、そこに教育活動に関する限りは制約があると思います。その制約は何だというならば、小中学校あるいは高等学校についてしかりだと思いますが、教育活動それ自体、教育内容を児童生徒に教え導くという行動半径は一定の制限がある。それは学校教育法の命ずるところに従って文部大臣が教科に関することを定め、またその定めねばならない権限と責任に基づいてひとしく学校教育法に定めるところの教科書の検定を行なう。これは主権者たる国民に対して文部大臣という立場で責任を持たされておることであり、またそのゆえに与えられた権限に基
何も検察局みたような態度と方法によって、全国数万の学校を、しかもそれぞれの学級、クラスにおいて行なわれている授業内容を監察したなどということは、文部省ではないと思います。従って、そういうことからしか発見できないような具体的な誤まりを、今ただちに申し上げる方法はございません。ですけれども、新聞紙上に表われたところだけをとって考えましても、たとえば山口県、たとえば京都府というがごときところに、戦後十数年にわたって忌まわしいことがあったことは、一応信憑性があると私は思っております。その一々の具体例をとらえて、それがけしからぬからこうだという気持を持って私が批判しておるわけではございません。必要とあればやらねばならぬと思いますけれども、その
これこそ教育基本法第八条そのものが物語っておると心得ております。
その通りだと思います。私が日教組について言うことを再び言及することが許されるならば、さっきも申し上げましたように、教師に政治的中立性などあり得ようもないというがごとき認識に立った倫理綱領は、教育基本法にまともにぶつかるということに懸念を持っておるのであります。抽象的でおそれ入りますが、さっきも申し上げましたように、学校教育法にのっとり、教科書を通じて教育され、学習指導要領にのっとって教師が行動します限りにおいては、憲法及び教育基本法の趣旨にのっとった教育が行なわれるはずです。もしそれに疑いがあるとするならば、そのことに欠陥があるゆえでありましょうから、将来に向かって改正するという課題はむろんございましょうけれども、私の感想を述べてど
それは必ずしも私はお説に賛同しかねますことは先刻も申し上げましたが、日教組の倫理綱領批判と並べておっしゃいますから、そのことに関連して申せば、日教組の倫理綱領は十数名の学者に頼んで書いてもらったと思われるのですけれども、全国大会で組織の機関にかけて正式にきめておる。きめた以上は組合員たるもの、そのおきてに従わねばならないということは当然のことであります。いわば法律、憲法等になぞらえていうならば、成文法として組合みずからが憲法として持っておる、定めておるというそのことが物語る行きつく先が、教育基本法第八条に違反するおそれありと懸念するがゆえに、反省を求めておる次第であります。 教育基本法を立法論的にもっとこうしたらよくもなろうかと
載せることは自由であり、載せたからといって改正されるものではない。国会を通じて主権者たる国民の負託を受けた機関においてきめるのでなければ、そうならないわけですから、書いたからといって弊害があるとかなんとかいうことは私はないと思います。現に日教組といえども、教育基本法第一条の教育目的は、あれは抽象的でだめだ、もっと具体的に改めなければならないということは、もう十数年来言い続けておることでありまして、そのことに関する限り、私は日教組と同意見であります。
たとえば日教組が、憲法は改正すべきである、あるいは教育基本法は改正すべきである、学校教育法には不備があり、改正すべきであると言うことは、これは自由であり、弊害はないと思います。その意味で自由民党が言いましょうと、文部大臣が言いましょうと、その限りにおいては同じことだ。憲法の保障する表現の自由の一端であると同時に、現状を見詰めながらそれぞれの立場によって改正内容が違うかもしれませんけれども、立法論的な意見を吐くことは何ら差しつかえない、教育の中立性を現実に侵すかいなかは、現に日教組みずからのものとして倫理綱領を定め、定めた以上は組合員たるものは、その線に従って集団に忠誠を尽くすことは、これは当然のことでありますから、その定められたもの
政治結社にあらざるものは、政治結社のまねをすることは許されぬというけじめはあるべきだと思っております。
むろん第一項目から第十項目に至るスローガン的な単純な表現そのものが、私の申しますようなことをそのものずばりで言っておるとは思っておりません。教師は労働者であるということすらもが批評すれば批評の余地はありましょうが、そのことが本質的なことと必ずしも思っていない。階級闘争理念に立っておるという注釈書を読んで、変だなと思います。しかも団結こそは教師の最高の倫理だと断定するところにも子供らしさがあると思います。もっとおとなになった表現をしたらどうだろう。その目的意識はお話しの通り十項目を読んだだけで、そのままでずばり出てこない。たくみに用語を警戒して使われておる痕跡は私は認めます。問題は、あたかも法律が施行規則、施行令その他通牒等で完璧にな
お答えします前に、私が立法論を言うことそのことが、憲法、教育基本法その他の法律を無視するがごとく独断したようなお話がちょいちょい出るわけですが、私は共産党の諸君は法律であろうと何であろうと気に食わなければ悪法である、悪法は法にあらずという考え方で現実に行動していると見受けますが、そういう人々なら別ですけれども、お互い民主憲法のもとに代議士として存在し、私ども公務員として存在しておる者が立法論を展開しておるから、さては改正しようとする意見そのままを地でいくのだな、そのまま実行するのだなあなどと思う愚かな者は一人もいないと思う。その意味において立法論即現実の脱線であるはずがない。これは常識人はだれしも認めるところであって、注釈を要しない
用語が洗練されておるかどうかというのは、その人の頭の中にあるボギャブラリーの問題であって、それをどう批判されるかはもちろんこれまた自由であるわけであります。その批判が具体的にどう現われるかは、選挙を通じて国民が代議士を選ぶあるいは代議士の中から閣僚を選んだり、何かを選んだりするわけですけれども、その選定の基準として、選定する人、批判する人、裁きをつける人がどう見るかということにまかせるほかないと思います。ただなるべく洗練された用語と洗練された比喩をもって表現したいものだという意欲は、私は常に思っておりますが、不敏なるがゆえにお話のような感じを持たれる方もあるいはあろうかと思いますが、これは今後の私の努力に待つほかないと思っております
これは一般的に申せば、そういう忌まわしい、悲しむべき事実が教育に関連して起こりますことは、何とかして絶滅するという方向で検討を加え、善処していかねばならない課題だと思います。それを一々こまかに分析しまして、こういうところにこういう欠陥がありそうだ、だからどうするんだ、ということを今頭の中に自分自身で、はっきり持っておりませんので、政府委員から一応お答えすることをお許しいただきたいと思います。
今例示されたようなこともまさしく検討せねばならないと思います。ですけれども、検討した結論が今ここに具体的にあって、こうですと申し上げることが私の念頭にございませんので、先刻のようにも申し上げた次第でございますが、思いつきでおそれ入りますけれども、今御指摘のようなことは、弊害として指摘する一つの課題だと思います。本来今の学校制度全般がこれでいいのか、これまた立法論的でありますからお許しいただきますが、六・三制をどうするということではむろんないのですけれども、十数年来の経験に顧みて、制度そのものに、何らか大学、高等学校、小中学校とのつながりにおいても、運用それ自体についても、今指摘されましたような社会的な悲しむべき事実との関連においても
ひっくるめて申しまして、御趣旨は私も異存ありません。人つくり懇談会のメンバーがあれで適切かどうかというお話も出ましたが、十全ではないと思います。しかし懇談会の席でも、お医者さんやら哲学者やら宗教家やら、あるいは教育関係の専門の学問をした人を入れたらどうだろうというような話も出たくらいでありまして、メンバーとしてすべてを網羅しておるというわけではむろんございません。責任転嫁、分散せしめるための策略でも何でもございません。総理が教育について関心を持つということはいいことですから、今後も続けたらという意見も出ておりましたから、今後もできることなら続行していって、人つくり即教育政策と言えないことはないわけでありますから、一国の総理として教育
あの白書を出しますときに、調査局長とも話したことですが、過去を顧みて現状認識を持つということは必要なことであって、その限りにおいては経済財政の面に限って一応観測のメスをふるった報告書としては意義がある、しかしその限りだけとしても、問題を提起するだけで終わるべきじゃなかろう、問題点が合理的な資料その他に基づいて課題として少なくとも示唆されるものがあるとするならば、それを受けて文部省内各部局に関連をしてきましょうけれども、それぞれの部局で明年度の予算の課目だけをあさり回るということもむろん必要ですけれども、明年度の予算課題というものは、相当長期の見通しの上に立って、大筋、概略だけであっても見通しを立てたその中の初年度分としてかくあるべし
考え方はあなたと同じであります。教育投資という言葉が世界的にはやりものみたように使われてきたそうでありますが、はやろうとはやるまいと、お説の通り私は、教育投資というものは生産的投資だというふうに根本的に受け取ります。あたかも鉄道なんというものは生産投資じゃないという概念で、旧憲法時代から整備されてきたと思います。道路については必ずしもそうでなかった。自動車が発達してきて、道路が公共性の高い全国民的な立場で重要視されるべきものという理解がだんだん高まって、惜しみなく道路整備に金を使うという ムードが今動き始めておると思うのですけれども、明治以来教育については、先輩の識見を高く評価しなければならぬと思いますが、そういう教育投資なんと
根本的には私は新憲法消化不良症状の現われだと思います。山中さんも今御指摘の通り、憲法第三章はもろもろの基本的人権、自由権々保障してくれておる。そのことは国民ともども御同慶に存じますが、同時に憲法は基本的人権、自由権の乱用を戒め、社会公共の福祉に貢献させる責任を課しておる。憲法第十二条はまるであってなきがごとき新憲法の制定以来の実施状況で、言葉をかえて言うならば、私はデモクラシー憲法の消化不良症状だと言い得ると思います。従ってデモクラシーとは何ぞや、基本的人権、自由権は当然責任もしくは義務を伴う本質を持っておるという憲法第十二条の趣旨を徹底することが、私は一般的な課題としては重大だと思います。教育、特に学校教育でこれをとらえるとします