事務当局で接触を持って、そのことをとる、とらぬにかかわらず、知っておるかどうかは私も存じません。私だけとして申せば存じません。
事務当局で接触を持って、そのことをとる、とらぬにかかわらず、知っておるかどうかは私も存じません。私だけとして申せば存じません。
御指摘の人つくり懇談会は二回開かれまして、私も人つくりの定義ははっきりしませんけれども、文教に関係ありという見地からだろうと思いますが、私にも出席を慫慂されましたので二回とも出ました。人つくり懇談会というのは、総理が、総理大臣として、もしくは党の総裁としての気持もあろうかと想像しますが、行政と政治の責任者としての心がまえを持ちたい、その意味でもくろまれた懇談会だと推察いたしますが、そういうことでありますがゆえにと思いますけれども、各人が人つくりという、それぞれ思い思いの受け取り方をしておられたと私は推測しますけれども、そういう気持で、率直に自分の考えを述べっぱなし、速記もとっておりません。という、読んで字のごとく懇談会でありまして、
それはけっこうなことの一つだと思って私も出席したわけであります。お話しのように、今、自民党に特に縁の深いということを断定的におっしゃいますが、あの人選は内閣でやりまして、文部省としてはタッチしておりませんが、たとえば私の常識からいけば、松下さんも来ておられたと記憶しますけれども、立教大学の、ああいう方は何も特に自民党に縁が深いという方でもないと私は思うのです。その他文士の方もおられたようですが、ああいう人々の一人一人のお立場は私も知らないほうでございまして、あの顔ぶれもそれぞれりっぱな人々であるなあと思って謹聴しておったわけでありまして、そういうことをすることは私は悪いことではないと思います。ことさらへんぱなものばかりを集めて、そう
内閣がきめたという言葉をあまり厳粛におとりになると、少し私の表現がまずかったのですけれども、おそらく官房長官あたりの思いつきで、電話でもかけて、承諾を得て、お集まりを願ったということではないかと思うのです。
茅さんがいらっしゃったり、……二、三の方は覚えておりますが、全部の方を正確に記憶しませんから、後ほどお知らせ申します。
これは新聞なんかでも、よく人つくりの輪郭がはっきりしないということを言い続けておりますが、私もそう思います。また、そうあるべき本質を特っているものだとも思うわけであります。しかし、通俗に、人つくりと言うならば、知能の開発の問題、徳性の涵養の問題、及び健康管理の問題、昔から言われる知育、徳育、体育と、まあ簡潔に言えば、そうも言えるかと思うのですが、そういう課題を通じて、りっぱな人を育成したいという一つの願いを表現しておることであって、今おっしゃった、その青年憲章ですか、そういうことに結びつけて、自民党という一党一派のためになるものなどという、けちな考えで自由民主党の政調を始め組織委員会が考えているとは私は思いません。総理が施政方針演説
今の青年憲章にしぼったような意味で、自由民主党が総選挙を控えて人つくりという課題と取っ組んでいるようなお話しでございますが、そのことそれ自体は私はけっこうなことだと思います。問題は中身だということだろうと思います。総選挙に備えて全国民に人つくりと言われる課題にどう取っ組んでいるかということを公開の席で訴えて批判を乞うという意味においては正しい態度たと思います。それは社会党さんであれ、民社党さんであれ、人つくりということをかりにお考えになるとすれば、同じように総選挙を控えて国民に訴えるという気がまえであることも想像にかたくないところであって、当然の私は天下の公党としてなすべき態度だ、問題は中身だ、こういうことだと思います。そこで、一体
私は一つも矛盾はないと思います。お話のように、たとえば人つくり懇談会のメンバーがあらゆる階層、あらゆる関係の方を網羅していないという批評はあり得ると思います。ですけれども、一応思いついた人々とまず懇談をして、意見を聞いて、そうして教えてもらう、そういう態度そのものは非常にけっこうなことであって非難さるべきことじゃないと思う。したがって、御指摘のように、もっと広い階層等の方々から、さらに何回も聞くという努力は積み重ねられてしかるべき課題とは思いますけれども、今までやりましたことそれ自体が悪いことだとは、一つも私は矛盾を感じないで素直に受け取れると思うのであります。で、にわかに人つくりと言うたということですけれども、これは人つくりという
新しい角度と言いますか、人つくりという言葉で表現された気持で衆知を集め、できればあらゆる職名の意見を聞いて誤りなきを期したいというための懇談会でこそあれ、それ以外の、何かしらんこんなふうに持っていってやろう、その持っていくであろう方向、内容は、憲法ないしは教育基本法以下の法律に反することまでもやろうなどということはむろんあるはずがありません。たとえば党が青年憲章というようなことを考えているとして、その憲章の中に盛り込まれた事柄が、憲法なり、教育基本法なり、その他に反していることを実現したいという課題があるとすれば、それはやるべきではない、そういうことなんで、ただし実質的にいいことがあるならば、これこそ立法論として法律を改正したり何か
全体主義の国や日教組ならいざ知らずと申しまして、今もそう思います。共産圏においては一定の人間像を予定して、それに合わないものは裁かれるというのが現実だと私は承知しておるのであります。日教組もまた倫理綱領を通じて、一定の人間像を予定しておると解釈される。憲法、教育基本法の趣旨に基づいての人間像というのは、はっきり何かしらん人形みたような人間の形を、いろいろな属性を、これ以外にはないのだというものとして示す方法がないと思います。方法のないところがこれまたいいところなんでして、万人ことごとく全人格の方向に向かって、心がまえにおいても、あるいは知能の点についても、全努力を傾けていくという姿そのものが人間像だと思います。今生きておるおとながこ
日教組の倫理綱領を中心に、なるべく全国を、できれば津々浦々に回って、直接国民や教員大衆にも訴えて批判を請いたいと思ってやっております。それは私の見解であります。問題は、そういう見解であるとして、現実に、しからば文部省という役所を通じて何をやっているか、そのことが憲法に違反しておるか、教育基本法に違反しておるか、あるいは学校教育法その他の法規に違反しておるかいないかということにつきましては、私は責任を持たなければならぬとむろん思います。しかし、立法論を含めて、私の見解を国民大衆に述べるということは、当然、政治家としての範囲においての責任は負わなければならぬ、言うたことは、当然に自分の意思として言ったのですから、それはむろんそう受け取り
日教組の倫理綱領が今の憲法なり、教育基本法のもろもろの趣旨に立って見た場合、間違っていることだけをわかってもらいたい、こういうつもりで演説をいたしておるのであります。
そう思っております。
組合行動そのものに文部大臣がどうするという権限は持っておりません。しかし、教師の心がまえと言われるところの倫理綱領そのものが、憲法の趣旨なり、教育基本法の趣旨に反しているとするならば、その誤まりを指摘しながら反省を求めるという事柄は、私の立場上当然やるべき一種の行政指導の機能だと思います。
それは大体、人様がかれこれ言われたということよりも、私自身が倫理綱領を読み、解説を読み「新しく教師になった人々に」を読んで、そう信ずるから申しておるのであります。
その点は、千葉さんが今おっしゃったように、組合綱領というものは、組合員みずからのものですから、外部のものがかれこれ言ったってどうできるものではない。しかし、せっかく作っておられる組合綱領である倫理綱領も、趣旨において間違っているじゃないかということを指摘して反省を求め、反省の上に立ってよきものを作っていただきたいという願いを込めて批判をしておるわけであります。
組合行動に干渉する資格はない。これはもう厳然たる事実であります。しかし、その組合が教育上好ましからざる理念を持っておるということがはっきりしておるならば、忠告することもまたこれは当然なしていい範囲のことである。一種の行政指導と言えないことはない。私がそうやらしたからといって、私の力、権限で、いやというものを綱領を変えさせるという権限はむろんございません。こういう見方があるがどうだ、間違っているじゃないかということを言うことは私の自由であり、それが教育上いい効果が現われると期待し得るものならば、それは私は国民のための言動であると信じております。
討論することによって何が期待されるかということを考えた場合、無意味だと思います。そう信じ切って一応作っておる、それを全国大会で一再ならず再確認しておるという性格を持った幹部の人たちに会って、そのことについて討論してみても意味をなさない、事柄それ自体の客観的な誤りを指摘するということによって、組合員たる教師、もしくは組合員でない教師諸君にそのことを知ってもらう。知ってもらって、そうだとも自分の自主的な判断において考えられるならば、みずからの見識で組合員の総意によって改正されるであろうということを期待して申しておるということであります。
むろん、およそあらゆる団体に責任者というものはあるのと同じ意味においてあると思います。
話し合うとおっしゃるのですけれども、話し合うという課題でもないし、またお互いの相互関係でもない。定めておること……。