従来の大学における一般的な慣例上、評議会等が選考しまして、たとえば学長であれば、その候補者を申し出る、その申し出に基づいて任命権が行使されるという関係に立とうかと思います。その場合に、任命権者である立場において、国民に責任も持つ立場から拒否する場合があり得る、さように考えます。
従来の大学における一般的な慣例上、評議会等が選考しまして、たとえば学長であれば、その候補者を申し出る、その申し出に基づいて任命権が行使されるという関係に立とうかと思います。その場合に、任命権者である立場において、国民に責任も持つ立場から拒否する場合があり得る、さように考えます。
教授会、評議会等の推薦されます過程を経て、その推薦する内容を、任命権者の立場において最終的な任命行為をするという関係だろうと思います。従って最終的に、まれではありましょうけれども、ノーという場合もあり得る、そういう解釈をするのが当然の解釈であろうと心得ます。
任命権そのものの存否について諮問されたわけではないと思うわけであります。教授会、評議会の職務権限も明確でない、構成も明確でない、そういうところについて中教審の御検討を願った、さらに任命権の行使についてもより慎重な考慮が必要であるということを、現行法でも当然そうですけれども、そのことを特に注意的に答申を受けた、さように考えております。
任命権というのは現行法上明確になっておるわけでありまして、任命権の作用は何だというならば、イエス、ノー両面含んでおる、これは一般論として当然のことと思います。ただ大学であるがゆえに、教授会その他の慣行上の手続が前提としてある、それが尊重さるべきことはむろん当然であります。それを尊重しながら、なおかつ慎重に行使をすべきであるという答申をいただいたわけです。その意味において非常に重大な問題もありましょうし、答申をいただく価値があったと思います。
その点は、私は疑義のないところと心得ております。
これはすべて公務員の身分決定につきまして、国民と無関係にはあり得ないという建前が憲法の趣旨かと思います。大学といえども学長、教授に至るまで国家公務員であることに間違いない。国家公務員の身分を与える行為は任命という行為であろうと思います。その任命という行為は、いわば国民にかわってなされる本質を持っておると思います。従って、それがゆえに現行法で文部大臣に任命権を与えておる。任命権を与えておるということは、天皇の国事行為みたいな一種の儀式ではないと思います。しかしながらさっき申し上げた通り、政治以来の日本における大学内の慣行、そういうものがありますから、それを尊重するということは、一般の公務員の任命権の内容とはいささか異なるものがあること
国家公務員の中でも行政官、司法官、検察官等種類があるわけでしょうが、それは三権が分立しているので、一般行政官以外の人事と、一般行政官の手続とに差異があることは、これはやむを得ないことだと思いますが、裁判官以外の国家公務員についての基本的な考え方は素朴だとおっしゃいますが、法学通論の範囲のことではないかと思います。
それはその通りだと思います。ですけれども国家公務員であることに間違いない。
その点は、私は教授会あるいは評議会等の一応のふるいにかけるということで、特別の考慮が制度上払われている意味においては、他の国家公務員とは違う、その意味で、慎重な考慮が払わるべきであるという特色はあると思います。
学問の自由というのは、一般的に国民一般が学問することが自由であるというのが、憲法の二十何条かの規定の趣旨だろうと思います。最高学府といわれる大学における学者の研究の自由が典型的なものではありましょうが、学問の自由は一個人たる国民ことごとくにある、それが憲法の趣意だと思います。
学問の自由は、私は大学の教授に限らないと思います。国民が学問をすることは自由であるということを憲法が保障しておる、こう思います。
教授、助教授の学問の自由、読んで字のごとくと思います。学問することの自由を、何人といえどもこれを制限し、じゃまするわけに参らない、そういうことだと思います。
憲法の学問の自由は何だとおっしゃいますから、一般的な解釈と考えることを申し上げました。大学における学者の研究しておる状態、教授しておる状態と、高等学校、小中学校の先生が学問し、研究し、教授することとは、制度そのものの差異があります限りにおいての相違はむろんございますが、学問の自由とは何ぞやといえば、国民全体だれでも学問することは自由である、こういうことであると思う、こう申し上げたわけであります。
学問の自由は、言葉を置きかえれば私は真理の探究の姿だと思います。その意味において、マルクスの経済学をその学問的真理の探究の限度において研究し、かつ教授する、それはもちろん自由の中に含むと思います。
大学教授が大学において何をなすかは、学校教育法に行動半径はきまっておると思います。研究し、教授すること、その研究することは真理の探究を目標とする、それが学問の自由の中身だろうと思います。 〔委員長退席、上村委員長代理着席〕
それは新旧憲法の違いの一番の特徴点だろうと思います。さっきも申し上げましたように、真理の探究という態度において、学者ならずとも、学問するということ、この自由、何人といえどもこれに干渉することは許されない、そう解釈します。
真理を探究し、学問的に教授することは自由だと思います。そのことについて文部大臣が気に食わないからノーと言うことはあり得ない。あっちゃならない。戦前といえども、私は京都の大学で資本論の講義を聞きましたが、戦前すらもなおかつしかり、研究し教授するという自由、これは文部大臣だろうとだれだろうとかれこれ言うべからず、こういうものだと思います。
帝国憲法のことを私は申し上げているわけじゃございません。戦前すらもそういうことであったと、例外もありましたろうが、新憲法のもと、さようなことはあるべからずというのが新憲法と旧憲法の違いだろう、かように思っておると申し上げたのであります。
現行法上任命権の作用とし、イエス、ノー両面を含むという解釈であるべきだというのは、法学通論的な疑いをいれない論理だと思います。それから山中さんから指摘される学問の自由あるいは大学における研究、教授の自由、そのことがさっき申し上げた通りであることと、任命権の作用としてイエス、ノー両面あるということとは矛盾しないと思います。いささかの矛盾もない。研究、教授の内容それ自体がけしからぬからノーと言うことはあり得ない。あらしめてはならない。それ以外の理由ではノーと言うことが制度論としてはあるべきである。しかしそれは大学人というものは日本一のトップ・レベルの人々であるべきはずですから、教授会その他の議を経て出てきたものに欠陥があろうはずがない。
今、山中さんが例示されたような、たとえばマルクスの資本論講義をしておる教授があるからこれはだめだという大臣が出てきたとすれば、その大臣が憲法違反を犯しておるということであって、制度の問題としては任命権の中にはイエス、ノー両面含むべきである。しかし、およそトップ・レベルたるべき人々の総合判断として推薦してきたものに万に一つも誤りなかろうと期待はするが、人間のやることだから万一の一が起こらぬとも限らぬ。そのときの保障に任命権の作用が残されていないならば、主権者は一体大学全部についてつんぼさじきではないかということになりはしないか。その意味において任命権の作用が、まれにであろうけれどもノーという拒否権を発動する場合があり得る。その道は残さ