というのは、私はあの十一月、ソ連政府の声明はわれわれに適用されるのか、適用しないのかということを聞かれた場合に、所長代理としては非常に答えにくかつたと思う。十一月までに帰すと言えば、九月半ばですから十一月がすぐ来る、十一月に帰れない場合に、実際困るわけです。それから十一月後である。十一月までに帰れないということをはつきり言えば、日本人たちは騒ぐでありましようし、非常に不満が起ると思うのです。きわめてデリケートな問題であつたので、答えにくかつたと思います。
というのは、私はあの十一月、ソ連政府の声明はわれわれに適用されるのか、適用しないのかということを聞かれた場合に、所長代理としては非常に答えにくかつたと思う。十一月までに帰すと言えば、九月半ばですから十一月がすぐ来る、十一月に帰れない場合に、実際困るわけです。それから十一月後である。十一月までに帰れないということをはつきり言えば、日本人たちは騒ぐでありましようし、非常に不満が起ると思うのです。きわめてデリケートな問題であつたので、答えにくかつたと思います。
ソ連の将校が徳田書記長の期待しているということを知つているとすれば、そこに連絡がある、そこに関係がある。こういうふうに推理発展して行くのは当然であつたかもしれ率い。けれどもその期待しておるというのは、軍なるソ連政治部将校の推測であつたかもしれないということは、私はわからないのであります。
政治のことはわかりません。しかしながら私はこういうことは言えると思うのです。日本新聞には反動を盛んに摘発し、つるし上げる、あるいは日本新聞には反動を帰さないようにということを、ある收容所の例でしたけれども、ソ連の内務省でしたかへ請願する、そういうような例も麗々しく載つております。問題は日本新聞と日本共産党の関係だと思います。
私は実際政治のことはよくわからないのであります。帰還のことについても、ソ連と日本とはまつたく違つていた。ソ連というものは信用ができなくなつて来る。だから政治というのはいつもからくりがあり、率直單純に事実が事実として通らないような気がするのであります。ですから政治については私は懐疑的であります。
今のは炭鉱に連れて行く……。
一九四七年後半においてアラマアタの地方から私の收容所にも数百名くらい参りました。
四、五百名くらい来たのではないかと思います。
八年においては私のおりました分所はなかつた…。
カラカンダに一九四五年に入つたときには、日本人の收容所が十ぐらいあつて、一つには、多少はありますけれども、大体平均して千人くらいいたと思います。九十九収容所というのは、大きなカラカンダ全体の名称ですが、その中に大体千人くらいを単位として、日本人もドイツ人も、それからルーマニア人も分所としていたわけです。日本人の収容所の十ぐらいのうち、五つくらいは炭鉱、五つくらいは地上建築、それから雑役に従事しておるわけです。私が一九四九年二月までいましたのは、地上建築の方であります。炭鉱の話もうわさとして聞くのでありますけれども、相当大きなけがをしたり、死んだのもあつたようであります。またソ連のやり方としては、各収容所分所においては、なかなか死なせ
一九四九年の二月まで私は十一分所、それから十一分所が解散になりましてから十六分所、この一つの分所にしかおりませんでしたが、一九四八年度までにおいて千人のもちから三、四百人くらい帰つたのではないかと思います。死んだ者は今言いましたように、各分所の死亡率としては低いのであります。私のおりました十一分所においては、これはあとで軍医の人の名前がありますから、正確なことは軍医の人に聞いてもらえばわかりますが、十数名ではなかつたかと思います。そのうち一九四七年度においても、とにかく相当衰弱しました。衰弱した順からどんどん帰すわけです。特に重い者は病院に移して、生きる者もおりましようが、そこで死ぬ。ですから実質的な死亡率はよくわかりません。
わかりませんね。最初に入つたときは他に分所が十くらいあつて、一万人くらいおつたのではないかと思いますが、一九四九年十一月に帰るときに、今の久保田さんたちの組九百数十名を含む日本人が、私の帰るときだから一九四九年の帰還が始まるまでに、やはり八千人はいたと思います。
大体そういうふうな印象を受けた。というのは、カラカンダというのは中間集結地で、西の方の收容所で帰国を除外された著たちが、そちらの方の收容所で清算されて残つた者がカラカンダに来るという結果になつております。
事前の話は私聞きませんでした。しかじながらその政治部将校は知つていたろうと思います。ちよつと言い忘れましたが、その政治部将校はこういうことも言つたと思います。諸君の構成は——諸君がどういうメンバーになつておるか、その構成を知つておるというようなことも言つたと思います。
一九四五年十一月私がカラカンダの第十一分所に入つたときにその所長でありましたけれども、無能であり、また酒飲みであるというので、その所長をやめさせられました。それから私はずつとかれがどこに行つたか知りませんですが、一九四九年の春くらいまで第九分所の倉庫係をやつていたそうです。
そうですね、義務的に出席したような……。
なめていたがどうか知りませんが、所長代理に付添つて義務的に出席した、顔を出したというような感じです。
それほど極端ではないけれども、やはり一種の暗示があつたかと思います。
そういうことを徳田書記長は期待している。そういうふうに私も思います。
そうですね。
私はそういうふうに期待するというので、励ますというふうにとりました。