知りませんでした。
知りませんでした。
いや共産党とは全然関係ありません。
おりました。
私は十一分所にいたのでありますが、作業場が五つか六つありまして、各作業場ごとに通訳がおりました。
そうたんのうとは言えないのです。たとえば満洲にいて、白系ロシヤ人とちよつと知り合つたとか、そういうことからだんだん覚えた人だと思います。
まあ各分所とも通訳が大体きまつておるわけです。作業場において、今日はかくかくの仕事をするというような仕事の割当、それから仕事が終つたときに、ナリヤードといいまして、その人の仕事の成果を書いて、こういう仕事をやつた、こういう仕事をやつた、だから何パーセントであるはずだという計算をやる。そういうことをやつておりました。
第十一分所におりましたときは、相対的に言つて、私が一番優秀な通訳であつたために、さきに言いました一九四七年の九月ごろまでは、大体収容所内において通訳をやつておりました。
冠婚葬祭についての……。
通訳をやりました。
それはカラカンダ地区ですと、月に三回、收容所付のソ連人軍医の立会いのもとに、あるいは軍医自身が身体検査をやります。身体検査といいましても、まつ裸にしてしりの肉をつねつてみる。そうして肉づきがよく、弾力性のある者は労働に耐えるというような大ざつぱな身体検査をやりまして、一級、二級、三級、四級、あるいは四級のかわりにオツカーというような言葉を使つたこともあります。そういうぐあいにして区別して、大体一級、二級は収容所外の作業、三級は軽労働、それからオツカーは休養——労働に従事させないというような区わけをやりました。
そういう方針であつたですね。
ええ。
それは非常にしばしばありました。特に生活に慣れない前半の二年間においては、しよつちゆうそういうお願い、要求をしなければいけなかつたのです。
もちろん私は一生懸命やりました。
大体おもな要求は、日本人側の大隊長を通じてなされていましたけれども、私が個人的になした場合には、やはり通訳としてはだれでも区別しないでやつたつもりであります。
日本新聞に載つておりまして私が記憶しておるのは、ある収容所においてそういう反動の名前をあげ、また反動の行状をあげて、そういう者を帰還せしめないようにお願いするという記事が載つておりました。ああいうのは、日本新聞の一つのある時期の方針であつたと思います。それから日本共産党との関係については私もよくわかりませんが、日本共産党の要請があつた、なかつたにかかわらず、ソ連としては、思想的なものに対しては手心を加える。絶対帰さないかどうか知りませんが、とにかく幾らか手心を加えるという方針はあつたと思います。というのは、先ほども申しましたように、一九四八年二月に全ソ連の收容所に民主委員会、反フアシスト委員会というものをつくつたときに、その委員会の
一九四九年のあのソ連政府の声明が出るまで、しよつちゆう日本人の間においてはソ連に——正式な場所においては私は記憶しておりませんけれども、個人的に職員に聞いたり、あるいは作業場において聞いたり、しよつちゆうそういうことを繰返しておりました。けれどもソ連側としては、はなはだ頼りない返事しか與えないで、時が来れば帰れるのだ、計画通り帰れるのだと言つて、はつきりしたことは與えてくれなかつた。一九四九年のソ連政府の声明が出たあとは、あの声明通りだから、お前ら軍事俘虜はみな帰るのだ、取調べ関係以外の者はみな帰るのだ、こういうことであつた。
ええ。
あのときあの場としては、私は一人であつたと記憶しております。
一人だつたと記憶しております。