歩行もできない人を働かせるというようなことはなかつたと思います。また死んだものを軒下に並べるというようなことも、カラガンダではありませんでした。
歩行もできない人を働かせるというようなことはなかつたと思います。また死んだものを軒下に並べるというようなことも、カラガンダではありませんでした。
すべての点において違反ししおるとは思いません。しかしながら個々の点においてはやはりずいぶん不満足な点もあります。たとえば所内に伐る人員を極度に制限する、そしてまた実際病気のために作業を休ませる、そういう人員についてもロシヤ側では、日本人の部員から聞いたのですが、日本人の部員にいろいろなことを言うらしいのです。あまりべらぼうな作業休——軍隊では練兵休と言いますけれども、作業を休ませるということもできなかつたようです。
それは日本新聞にアカハタの記事が載つている。日本新聞があれほど激烈に日本共産党入党ないし支持を日本人捕虜に呼びかけたという点であります。
当然の推測だと思います。
別に感知いたしません。
おかしくないと思います。あれほど頻繁に毎号々々載つているのですから。
それはそうであります。そんなに毎号載り、またアカハタ紙だけ載せるというようなことは、やはり関係があると思います。
記憶ありません。ただ号数は載つたと思います。
全然入りません。
そうであります。
大正六年七月十九日生れました。北海道で小学校、中学校を終え、それから昭和十年東京高等師範学校の文科に入りました。それから昭和十三年東京文理科大学哲学科に入りました。それから昭和十六年四月から昭和十七年の十月まで北海道の旭川師範学校の教諭でありました。それから昭和十七年の十月から昭和十八年の十一月まで京都大学院の文学部学生でありました。それから昭和十八年の十一月に召集になりました。軍隊の経歴は……。
昭和十八年の十一月に召集になりまして、一番初めに北海道の帶広の北部第九一部隊、これは高射砲の連隊であります。それから初年兵時代は北千島幌筵におりました。昭和十八年の三月幹部候補生の試験に合格しまして再び北海道の帶広に廻り、三月から七月まで帶広で幹部候補生の教育を受けました。昭和十九年の七月から昭和二十年、一九四五年の一月まで千葉陸軍高射砲学校で学びました。昭和二十年二月高射砲学校を卒業しまして、見習士官として満洲鞍山にありました満洲第一二二四部隊、これは正式に言いますと野戰照空第一大隊、ここへ赴任しました。そこで小隊長をやつておりまして、昭和二十年の八月に入りましてから、部隊が奉天に集結を命ぜられました。そうして奉天に集結しまして、
間違いありません。
あります。
菅委員となつているのはどういうことですか。
私は一度も民主委員などになつたことはありません。
その次はシマと書いてありますか、シヤ中尉とありますか。それはシャーフイーフという名前であります。
政治将校何中尉と書いてあるのでありますが、それは正しくはエルマーラエフ上級中尉であります。
その他言えば、こちらからも入口があつたと思います。
屋根は板、紙、泥にて作られる、結構ですね。それに間違いありません。