三月七日でしたかね。
三月七日でしたかね。
そうですが。
アカハタの紺野という記者が来ました。正確には私は名刺をとつておりますから。あとで……。写真班の人が来ております。
手記を読んだ。で、あの手記についていろいろ聞きたいというふうに言つて来ました。
希望というと、別に述べなかつたです。向うの方では……。
新聞に載つてから、小平細胞の福島という人が来ました。
新聞に載つた次の日くらいじやないかと思います。
はあ。
あのアカハタの記事をそのまま信じて、今度はああいうふうに言つてくれると非常にいいと言いましたけれども、私はそうではない。あの記事にはずいぶん誇張がある、歪曲がある。私は共産党とは関係なく、事実を事実として明らかにするから、もう来ないでくれと言いました。
別に話はない。小平細胞の人は、われわれは平和と民族の独立のために闘つておるのだという共産党の宣伝めいたことを言つておりました。
それは私記憶しておりませんけれども、第九分所には徳田日本共産党の本部からはがきが来ていたことを今記憶しております。
大体第九分所の人に聞きましたところが、徳田氏に対して爆弾を投げた事件があつたのが日本新聞に載つて、それに対して見舞状を第九分所の日本人が出したそうです。それに対して共産党本部から徳田球一代筆といも返事が数通来ておるということを聞きました。私もその一通を読みました。
共産党本部にアルバイトに来ておる学生であるというような記事でありました。徳田さんはあの爆弾事件以後も非常に活発に活動しておる。現在は総選挙の運動の最中であり、徳田さんはトラツクの上に乗つて演説をやつておる。そのまわりにおじいさん、おばあさんも目を輝かして聞き入つておるというようなことを書いてありました。
もう一通くらい女の人から来ていたのがありましたが、内容はよく記憶しておりません。忙しいからそのとき見なかつたのですが、十通以上は来ていたと思います。
そうですねえ。——そのことは別の地区の証人に……。
反動分子は帰つてほしくないというようなことはなかつたと思います。民主主義者になつて帰つて来ることを期待しているという手紙はあつた。
そうでなかつたと思います。つまり元気で活発にやつておる。徳田球一氏がトラツクの上で演説をしておるのを、日本のじいさん、ばあさんやおかみさんがみな熱心に聞いておるというようなことであつたと思います。
十一月の初めです。
そうです。
別に私はいやがつておるわけではありません。ただ私としては政治的な確信というものを、ソ連においても、また現在においても持つていません。アクチーヴというのは、ソ連側ではこういうふうに規定したと思います。日本の民主的な改造に対して賛成し、そしてソ連においてそのために政治、文化、生産において何らかの活動をしているものをアクチーヴという。それからただ日本の民主的な改造に賛成しているとい、だけであるならば、アクチーヴでなくして、民主主義者、詳しく言えば民主的な傾両者である、こういうように規程していたと思います。