ちょっとお伺いしますが、八月は、ドゴールがパリに入城したときには、まだペタン政府がヴィシーにあった。ドゴールは実効的な支配権を持っておらなかった。米、英がドゴールを承認したのは十月です。そうすると、全くフランスを支配する力のなかった者の言葉を、政府は対日戦争の状態と御認識になるのですか。
ちょっとお伺いしますが、八月は、ドゴールがパリに入城したときには、まだペタン政府がヴィシーにあった。ドゴールは実効的な支配権を持っておらなかった。米、英がドゴールを承認したのは十月です。そうすると、全くフランスを支配する力のなかった者の言葉を、政府は対日戦争の状態と御認識になるのですか。
それじゃ、今の公電は八月でしょう。その八月、演説をしたときには、ペタン将軍がヴィシーにまだおって、そうしてペタンの外交支配権というか、国の代表としての権力が強かった。まだ亡命政権の域を脱しておらなかった、ドゴールは。それを採用なさるかと言うのです。
パリを回復したときには、——くどいようですが、ドゴールはまだどこの国からも承認されておらない。いわゆるフランスの支配者じゃない。そういう者の言葉をとって、そうして日本の重大な問題を決定する資料とすることはできません。(「その通り」と呼ぶ者あり)
国民は納得いたしません。この問題はいずれ他の機会に追及いたしますが、では引き続いて次の質問に移ります。 伺いますが、ベトナムという文字が国際的に公然と使われたのはいつからですか。
それも間違っておるようですね。一九三○年、十八才の若い大学生ベトナム人フユーという男がフランスからつかまって断頭台上に上るときに、ベトナムと叫んで殺されておる、それからずっと禁句になっておりましたが、一九四五年昭和二十年の三月九日、日本軍が武装解除をいたしまして、バオダイを中心として政府を作った、ベトナム政府を。その宣言にベトナム帝国はフランス安南保護条約を廃棄し、完全独立を回復することを宣言する、このときが初めて国際的にベトナムという語ができたのであります。いかがでございますか。
日本がこれほどまでにフランスに対して慎重な態度をとったのは、外務大臣が先ほどお答えになったが、これは非常にセンスのない御答弁です。その根本原因は、当時ドゴールがソ連に行きまして、ソ連ドゴールの軍事同盟を結んでおった、日本としてはフランスを敵にするとソ連が出てくる、これがこわいから最後までフランスというものを刺激しないようにしたのです。どうです、この見解は。
ベトナムの独立に次いで、カンボジア、これが二十年三月十三日、ルアンプラバン、ラオス、これが四月八日に独立を宣言しています。この両国が日本に対する賠償請求を自発的に放棄をしておる、当然であります。しかるにこの両国と全く同じ性格を持ったベトナムだけが賠償を要求しておる。なぜ岸総理は、このラオス、カンボジアと同じような態度でもってベトナム問題を解決しようと努力をなさらなかったか、努力をしたけれどもできなかったのですか。それを総理から……。
けさの産経新聞にベトナム賠償の実態と称して、小松清という人が書いております。これはゴ・ディエンディエムとは十五年間の親友であります。この人自身もまた、この賠償の形式はまずい、なぜ経済協力の形にしなかったか、こうすれば北との問題も起こらない、こう言っておりますが、これに対していかがでありますか、岸総理。
では具体論に入りまして、戦争中に生じた損害と苦痛、具体的にどういう損害を与えたか、藤山外務大臣。
その相当の損害を具体的にお示し下さい。
どのくらいの人が死んでいますか。
とんでもないこと言います。三十万死んだって大へんなことなんだが、だれからそういうことを調べたか、どういう経路から調べたか、それをお示し下さい。
それじゃ困難々々と言うが、これほど楽なことはない。仏印じゃいくさしておらないし、生きた軍人はみな残っておるし、調べるならどこでも調べられる。一体どういう人間にどこで会ってどういう数字を聞いたか。(「辻参謀に聞いたか」と呼ぶ者あり)僕のところには聞きに来ておらぬじゃないか、おれが一番知っておる。名前を出しなさい、だれがそういうことを言ったか。
国民の前にはっきりしろ。松本大使と最も親友のあった当時の軍司令官土橋勇逸中将は現存しておる、それに聞かれたか。聞いたか、聞いたかそれだけだ。
どういうことを言われたか、その内容。
土橋中将が二、三十万死んだと答えましたか。
土橋中将ばかりでなくというのは、ばかりの中には土橋さんの言ったことは含んでいるのか、呼んできますよ。
どのくらいと言われたか。(「答える必要ない」と呼ぶ者あり)答える必要ないとは何を言うか。
当時の部隊長、主任幕僚、司政官、外交官はみな現存しております。これはほかの地域よりも調査は最も容易な条件です。それを調べておらない、これは私があの地区に百日もぐっておった、終戦後。そうしてそのとき書いた資料がここにあります。絶対にありません、どんなに多くても一万、こう見ておった、当時の軍は。三十万という数字はどこから出たか。(「広島と間違っておる」と呼ぶ者あり)
大臣は先ほど明号作戦とイ号作戦があった、この損害はどう見ておりますか。