そうです。
そうです。
まずカードがこのくらいありまして、復員調査というのですか、その中に、捕虜になつて、それからどこの、どういう收容所を経て帰つて来たということは、われわれは復員業務に必要なことですから記入したわけでありますが、さらに別にハバロフスクの地図を書けとか、あるいはハバロフスクの君のおつた收容所、それは戰車工場なら戰車工場は一体どういう生産能力を持つておるのか、あるいは君のおつた飛行場にはどういう飛行機があつて、どこに飛行施設があつたか、こういう問題。あるいは工場労働者の数と生産能力というものについて記入せよと言われました。われわれはそれは知らないからできないと言うと、復員業務を拒否するなら上陸させない、こういうわけです。
第六收容所の同志会というのはどこでございますか。
私の関係した收容所でありませんから、私にはわかりません。
だれからも命令を受けません。
われわれはポツダム宣言によつて、日本の非軍事化と民主化、また戰争犯罪人を徹底的に追究しなければならぬということがはつきり規定されている。今後の日本の国のあり方というものはそうあるべきたと考えておつたので再び冷たい戰争に追い込まんとする意図を持つておる戰争犯罪人は、断固追究しようではないか。今まで押えつけられておつた者がみな沸き立つて来たのですから、だれからも命令されたわけではなく、みんなの意思に基いてやつたのです。
われわれが戰争犯罪人を断固やれ、やろうじやないかというのは、今まで天皇の命令でがんじがらめにして、軍律でしめつけられて来たわれわれが、しかも無責任に再び戰争をやるの、だというようなことを言つたら、だれだつて怒らざるを得ないですよ。むしろわれわれはそういうものを、ポツダム宣言に基いて日本の非軍事化と民主化のためにやろう。そうしてそういうでたらめなことを言う者に対してやつたら、日本の国家はおそらくわれわれをほめてくれるだろうと考えおるのですけれども、われわれが戰争犯罪人を追究したことが悪いように聞えてしようがないですよ。
それはわれわれはポツダム宣言に忠実に、日本の民主化と非軍国化のためにやろうという気持ですから、これは御自由に解釈していただいてけつこうです。
これはわれわれも追究したのですけれども、まつたくあそこは日本の領土じやないということを感じたです。あそこには二世とか、MPだとかいうものが来て、われわれが船から上るときに、三百人くらいずつ一列に並んで来るのですが、それをぐるぐるMPの乗つたのがデモンストレーシヨンをする。そういう形で威嚇するわけですね。それから上つて来ると同時に風呂に入れと言つて、われわれの立会いもなく検査をやる。そうしてそれを拒めば占領軍命令だという。それから大阪から警察官が約八百名くらい動員されておつて……。
そうです。
それは今言つたように、飛行場の数だとか、あるいは工場の生産施設とか、それを書かなければ復員業務拒否だと言う。われわれは知らないから書けないのです。
それは九日の夜の九時だつたと思うのですが、自分以下十二名の日本新聞に関係のある者がRTOの汽車に乗せられて、MPとアメリカの将校が一名と、それから通訳と復員庁の役人と警察官五名だつたと思います。これがついて特別列車に乗せられて東京駅に着いて、駅に着くと同時にジープに乗せられて、元の陸軍省の復員局の第二外来宿舎に入れられ、これは警視庁の巡査が八名、藤原巡査部長以下八名が書夜交替でここから一歩も出ることはならない。便所へも行けない。毎日のように郵船ビルに連れて行かれて、向うの軍事施設、あるいは日本新聞の組織だとか、そういう問題について言え、言わなければ軍法会議にかける。そして私は暴行をも加えられたことがある。そういうような状態で約二十日
最近の帰還者は非常にほんとうのことを書かない、だから帰さない。言うまでは幾らでもここにとめて帰さないというようなことで、おどかされたわけです。
われわれはそこで当然復員業務が終つたら、三日ぐらいしたら帰れるのだ、このように理解しておりました。
それは二十日間おりまして、大体一万七千円ぐらいじやなかつたかと思うのですが、あそこで飯代を約三千円ばかり、途中で金がないものですかちわれわれが借りたやつ、そういうやつが約千円で、四千円ばかり差引かれたと思います。そこでその問題を聞いたのですが、これは終戰処理費から当然君たちの日当としてもらえるものだというように言つておりました。あそこはものすごい、毎日五、六十人ぐらいずつ来て調へられておるようです。
自分にもやはり代読でなくて、個人の人格を認めてもらつて真実を述べるという立場から、宣誓書を読ましてもらいたいと思います。
けつこうです。
発言します。
自分は一九四五年の九月二十九日、コムソモリスク地区、第十八地区の第一分所に入所いたしました。その分所には約三千人の人員がおりまして、そうして第二、第十四、第五、第九というように大体コムソモリスクには約一万内外の人員がおりました。この十八地区は大体四十八年の初冬に閉鎖になりましたが、その前に私はシベリアの民主運動の最高指導部である日本新聞に六月の十二日に参りました。大体沿海地方、それからハバロフスク地方、これらの地区は宣伝不におりまして参りました。大体のハバロフスク地方の概数は今はつきり記憶にありませんが、六、七万であつたと覚えております。
帰還は、私は十月の二十一日にハバロフスクを立ちましたので、その当時ハバロフスク地方の大体の状況は、十六地区、特に私が責任者としておりました十六地区の概算は五千五百名、只今山本証人から六千五百というように言つておりましたが、これは勘違いだろうと思います。私は十六地区の責任者として私の帰つて来る時、私の梯団を入れて五千五百名であります。それからコムソモリスクが千三百、これは第五地区に所属しております。それから第十九地区のライチハ、これは七百名おるところへ中央アジアから約七、八百参りまして千三、四百名がおりました。四地区は大体十月の十七、八日に全部引揚を完了いたしまして、そうしてこれは閉鎖になつております。ハバロフスク地方の自分が発つ当時