それはハバロフスクの地区内であります。それ以外は只今申上げた各地区の数字であります。
それはハバロフスクの地区内であります。それ以外は只今申上げた各地区の数字であります。
十六地区が大体五千五百、それからコスソモリスクが千三百、それからライチハが千二、三百、四地区は十月十七、八日に全部輸送を完了いたしまして閉鎖された筈であります。ハバロフスク地方の自分が出発する当時の人員は以上の通りであります。
ハバロフスク十六地区でございますね。
私は主としてハバロフスクにおりまして各地区を廻りましたが、特によく状況の分つておる十六地区の状況を申し上げますと、山本証人が言いましたように、第三、第五、第七、それから第八といつておりますが、これは早く閉鎖されました。九月上旬に閉鎖されております。第五、第七、第九、第十、第十一、第十三、第十六、第十八、第二十、第二十一、それから山田乙三大将、関東軍司令官以下を收容する四十五收容所、大体こういう状態であります。
私は第十八分所に所属いたしまして地区本部におりました。
各分所へは一週間も一回ずつ廻りました。分所の日本人の生活状態、それからその外いろいろな問題の調査のために廻りましたから、十六地区の状況は一番よく知つております。
それにお答えいたします。大体自分は四六年の六月十二日に日本新聞社に行きまして宣伝部におりまして、各地区を廻りました四六年当時の数字であります。これは大体最高の数字であります。
ハバロフスク第五收容所は、私が参りました。つまり日本新聞に参りましたときが第二收容所でありまして、それから約数ヶ月いたしまして第五の方に、給與分担の五分所に参りましたので、五分所の方に所属したことになつておりますが、五分所において生活したことは私が地区本部から出張して生活した以外にはありません。
今の問題について。それから前職者の問題について今委員長殿が山本証人、それから丸山証人にお尋ねいたしましたが、この問題について非常にまだ残留家族の人達が心配になつておられるようでありますし、注目はこの点に集中されておるようでありますから、この問題について皆さんの前に真相を明らかにしたい、このように考えます。 先ず前職者、これは対ソ攻撃に準備されたいわゆる日本陸軍の支柱といわれた関東軍の憲兵、警察、特に警察の分室といわれた特殊情報に参加していた警察官、それから特務機関、それから防疫、給水部、特に石井中将を長といたしまするハルビンの香坊の郊外にありました石井部隊、これは大体ちよつと概要を説明申上げますと、コレラ、ペスト、発疹チブス、こ
分りました。簡單に申上げますが、一応今後の私の発言、その外の問題に関連がありますから簡單にこの全貌について説明を申上げたいと思います。時間を若干割愛して頂きたいと思います。
それについて委員長、高山敷衍いたしたいのですが。
先ず前職者と規定されるものは連合軍の一員であるソ同盟に対する直接の攻撃に参加したものを言います。これは特務機関、それから憲兵、警察、警察は特に、憲兵もそうでありますが、国内の治安に当つていた者はこれに該当いたしませんが、ソヴイエトに対する直接の攻撃に参加した者、それから特殊部隊、例えばさつき御説明申上げました防疫給水部、いわゆる細菌部隊、石井中将を長とする東條の直接の指導下にあつた恐るべき細菌部隊、これは人類の歴史から抹殺しなければいけないと思いますが、そういう恐るべき部隊、それから三四五、それからバルチザン部隊、これらのものが前職者として現在取調べを受けておる筈であります。逆送の問題についていろいろと問題になつておりますし、又当参
それにつきましてお答えしたいと思います。関東軍の無責任なる処置によつて交戰時間は極めて短かくありましたが、非常に大きな無駄がありました。これについて具体的に申上げますと……。
それについては非常に多くの犠牲者が出ております。
第二の問題は、こちらにおいていろいろと向うにおける捕虜の状態は手紙でいろいろと聞いております。特に十六地区内において我々はいろいろ手紙を見たり又分所へ行つて見たのでありますが、モスクワ放送を手紙で通知して呉れてそれは非常に有難かつたけれども、そのために二百円も三百円も取られた、こういうような手紙は沢山来ておりましたし、私の家にも大体二本その手紙が来て、一本は確か神戸附近だつたと聞いておりますが、その方から料金を百円を送つて来いと言つて取られたと、これは自分が帰ると家内が直ぐそう言つておりました。それから引揚促進について内地でいろいろ運動が行われているというようなことも日本新聞を通じて大衆には確かに分つております。
草知大佐をよく知つております。
戰闘の状態についてお答えいたします。大体戰闘は、私共が丁度開戰したときは綏西という所におりましたのですが、九日の朝三時頃から開始されております。そうして直ちに穆稜陣地に行きまして、関東軍の最も全戰線を通じて激戰を極めた穆稜陣地におりました。大体あそこにソ連の機械化部隊が入りましたのが十一日で十一、十二、十三の大体三ケ月間に亘り猛烈な戰闘が開始されました。戰闘が終りましてからも全然戰線は、師団長、或いは兵団長が先に逃げてしまつて、第一線の部隊は置去りにされるという状態で、十四日詔書が下つたということは全然分つておらなくて、戰闘状態にあつたということであります。
自分は穆稜陣地の満洲一〇二軍連隊本部の大隊団列におりました。長は北田少尉、その指導下におりました。
砲兵上等兵であります。
連隊長の中曽根中佐は常に戰線の状況について、連隊本部に所属するものについてはその当時の状況を話しておりましたし、それから後退しつつ師団長或いは参謀長と前後してずつて捕虜になつた東京城附近まで下つて行きましたから、本体牡丹江方面の戰闘の状態は砲兵上等兵でありましたけれども、よく分つておりました。