收容所内においてはパン切りの小さい刀と、それから炊事用のもの以外は許されてなかつたのでありますが、皆作業に行つて、工場なんかに行きますから、どんどんそんなものを作つて来ておつたわけであります。特に反動分子は、分所の全権力を握つておりましたので、それらがいろいろな方法、手段によつて收容所内部における法規を犯してそういうことをやつておつたわけであります。
收容所内においてはパン切りの小さい刀と、それから炊事用のもの以外は許されてなかつたのでありますが、皆作業に行つて、工場なんかに行きますから、どんどんそんなものを作つて来ておつたわけであります。特に反動分子は、分所の全権力を握つておりましたので、それらがいろいろな方法、手段によつて收容所内部における法規を犯してそういうことをやつておつたわけであります。
日本新聞に一九四五年の……。
日本新聞宣伝部の責任者、それから第十六地区の議長、つまり責任者です。
勿論私は軍事捕虜であります。そういう立場において反フアシスト運動が盛んになつて、大衆から選挙されて選ばれたのであります。
大衆の選挙によつて選ばれたものはソヴイエト側はこれは承認して呉れました。勿論いろいろと監視、監督する責任はソヴイエト側にありますが、大衆の選挙によつて出たものは、これがいいものでも惡いものでも一応ソヴイエト側には承認して頂いております。
一切の責任というと、その意味が非常に広範囲でありますが、その点御説明願いたいと思います。
ナホトカに出張いたします場合は、一応自分達の監視、監督にある上の方に申し出て、そうしてそれによつて許可して頂く、そういう手続を必要としております。
自分はスターリン大元帥への日本人の感謝文、四ケ年の生活を通じて非常にお世話になつた、健康な体で帰つて行けることを、ソヴイエト政府並びにその指導者である同志スターリンに感謝の手紙を送ろうという大衆の下からの声が盛り上りまして、そうしてこれが大体九月に完成いたしまして、十月の十一日にこれを高山外五名の者がモスクワに持つて行くようになつておりました。
いや、これは全シベリアにおいて広汎に皆さんの要求として行われたものであります。而もそれは自由意思の原則に基いて行われたものであります。
第五分所の火災による死亡の問題については、自分は記憶はありませんが、死亡の事実については……。
いろいろと関連がありますし、前の証人の発言もまだ不徹底であつたし、この問題について委員会の方でも御努力されておるようでありますし、この問題を明らかにすることが証人の責任である、国民の責任であると考えますので、この点を明瞭に御説明申上げたいと、こう考えて発言をお願いするわけであります。
分りました。甚だ残念でありますが、私は日本新聞の者でありまして、日本新聞はこれは第五分所に籍があります。そういう立場から言うと、分つていなければならないのでありますが、丁度第四地区の青年大会がありまして、私はその方に出張しておりました。帰つて見たら第五分所に火災があつたというような状態でありまして、その当時の具体的な問題、又何名死んだかというような問題については全く記憶にないのであります。
それは分つております。それは聽いております。
いろいろと各証人から当時の状態について意見がありましたが、これについて自分の考えを申上げますと、入ソ当時将校共は、我々は敗戰ではない、停戰によつてソヴイエトに来たものである。従つて日本に帰るまでは軍隊編成のままでなければならない。軍隊は言うまでもなく天皇の命令によつて任命されたものであるからして、肩章を外すことはまかりならぬ。そうして上官の命令は如何なることでも服従しなければいかん。聊かでもこれに反する者は日本に帰つて軍法会議に付する。こういうような嚴しい規律が押し付けられ、そして又その上に彼らは小倉証人が言いましたように、我々にソヴイエトから定量で配給されておつたパン三百五十、雜穀四百五十、野菜八百、肉五十、魚七十五、砂糖十八、植
そうでございます。
はい。
只今申上げましたように、我々の民主運動が盛んになつて参りました後は、いろいろな天ぷら、或いはぼた餅だとか、そういう料理方面においては非常に豊富になりまして、皆から喜ばれたものです。ソヴイエトの幹部にこの責任を転嫁しておりますけれども、最初はいろいろと言葉が分らないし、幹部にすべての権限を委ねたというような状態で、こういう不正な行為を反動的な幹部がやつたわけであります。これをソヴイエトに流しておつたかという質問でありますが、そういう事実は一部にあつたかも知れませんが、全般としては、一週間に一回、或いは一ケ月に数回に亘つて政治部員、つまりコミサールと言つておりますが、この人が点検に来ますので、ソヴイエトの側においてはそういう不正は全然な
そうです。幹部やそれから彼らの養つておつた暴力団とか、或いは反動的な下士官、こういうものが贅沢をするためにごまかしておつたということが言えます。
初期においては大体三〇%から四〇%を占めておつたと思います。下士官、暴力団、反動将校、こういうものを入れて大体力関係において三〇%から四〇%であつたと、このように考えます。一番悲惨な状態にあつたのは何にも言えない初年兵、それから満洲における応召者、こういう人達であります。
大体コムソモリスクからハバロフスクの状態であります。特にハバロフスクから遠くに離れた地区においては、御承知のように吉村隊のように事件が、四十八年から九年においても行われたという例がありますから、それは一概に言えないと思います。運動の遅れえところ程ひどかつたということは、はつきり言えると思います。