それはどういう実態であつたか、いずれにしても現実はそういう状態であつたわけであります。
それはどういう実態であつたか、いずれにしても現実はそういう状態であつたわけであります。
それはよく知ておりました。これは又関東軍の……。
知つております。
ソヴイエト側の方からは收容所の幹部、即ち日本人の大隊長にこの定量は全部渡されておつたのであります。でありますから我々が帰る頃になつて、又民主グループ運動が勝利いたしましてからの給與というものは非常によくなつております。
やはり将校を中心とする反動グループがこれをごまかして、彼等で上前をはねて食べておつた、これを事実であります。
そうであります。それを幹部がごまかしておつたわけであります。
それは幹部が完全にそういうことができなくなつた、そうして民主運動が盛んになつた。不正が全然行われないで、皆に給與が正しく配給されたというところに原因があろうと思います。
ソヴイエトからの給與規定というものは大体最初からしまいまで同じであります。ただソヴイエトの偉大なる工業力の発展によつて非常に物が豊富になりました。各分所内にも、マガジンだとかレストランというものが設けられて参りました。給與がよくなると同時にそういうものが設けられ、そうしてこれが兵士大衆の手によつて運営されていた。よく真面目に働く者は俸給を貰いました。それを利用することができましたし、相当贅沢な生活が保障されておつたわけであります。その点において問題をよくお考え頂くならば極めて明瞭ではないか、このように考えるのであります。
それはやはり徐々に量を増して来たのではありません。最初から大体パンは三百五十、雑穀は四百、一応四十六年の旱魃のとき若干一、二ケ月減らされたこともあるかとも思いますが、定量には全然狂いがなかつたと思います。私はそのような給與を受けて来ました。各地を見て参りましたけれども、この給與には全然変りがなかつたのであります。将校がこれをごまかしておつたのであります。若しそういうことが段々に殖えて来たという者があつたとするならば、その証言は極めて不明瞭なものであります。過ちであると、私はこのように考えます。ソヴイエトの給與規定というものは私が入りましてから、直ちに分所の状態を調べたのでありまするが、これは最初からそういう規定でありましたし、それを
今天田さんの方から言われましたが、ソヴイエトの方で規定された給與、これを受取らないとか、いろいろの問題が提起されておりますが、勿論山奧でそういう不便極まる所で、輸送なんか困難な所では、或いはそれが変更になつたことがあるかも知れませんが、必ずこれは加配して分配されたわけです。又野菜がない場合には雑穀に換算されて配給されるとか或いは生野菜がない場合には乾燥野菜で配給されるとか、必ず何等かの方法によつて給與規定に基く配給というものは、終給一貫行われております。
関東軍の終戰当時命令が全然第一線に伝達されないで、我々は全く山の中を毎日のように行軍し続けて行つてわけです。樹海の中を私達は二十日ぐらい歩いたと思いますが、その間食物というものは殆んど馬の肉と野葡萄の葉ばかりだつたのです。そういうような状態で、ソヴイエトに入つた時には大分皆が食糧の問題で困つておつてということが言えると思います。従つて、ソヴイエトから定量が配給されても、将校にごまかされる、皆非常に腹を空かしておる、そういうような状況下にあつて、特に奥地不便なところにおいて、送輸が跡絶えるというような所においては、或いは蛙を食つたり、蛇を食つたところがあるかも知れません。我々はこれを決して否定するものではありませんが、要するに定量が全
定量の問題と、それからソヴイエトの民族的な差別の問題で、問題を提起されておられるようでありますが、ソヴイエトは如何なる状態に下にあつても、我々に対する民族的な差別、人種的な偏見というものは全然ありませんでした。四六年はウクライナ地方が非常に旱魃で困難な状況でありました。地方人の人達もマガジンの前に並ぶ、こういうような状態の下にあつても、捕虜に不自由さしてはいかないと、特別な配慮によつて定量、或いは一、二ケ月若干定量より下つたことはあるように記憶いたしますけれども、それは直ちに改善されて、ずつと定量が我々には支給されました。この点については、如何なる反動的な人達もソヴイエトの温かい配慮に対しては感激したものです。それから我々に対する特
私は特に四十七年の暮から帰るまで、憲兵、警察、特務機関、山田乙三以下そういう戰犯が集つております十六地区の責任者でありますから、そういう立場から、こうした戰犯が集つている状況はよく分つております。
分りました。これは防疫給水部の唐澤という少佐と自分は直接合いまして、そうして彼から、恐るべき防疫給水部の内情を聞いたのであります。 七三一部隊の部隊長の石井は、敗戰と同時に飛行機でハルピンから東京に逃げた。あとの者は滿洲に残された。彼はハバロフスクの收容所に参りまして、私は彼と十三分所で会いましたが、そのとき自分達の反人民的なことが如何に中国の人民に、或いは満洲の人達に迷惑をかけたかという具体的な問題について語つたわけであります。その一例としまして、防疫給水部は大体日本の細菌学者が百数十名集つてそうしてこれらの者がペスト、コレラ、発疹チブス、そういうような黴菌を培養して、そうして飛行機も大体十台ぐらい持つておりました。ハルピンの
そういう人達が今責任ある立場におつた者が取調べを受けておるわけであります。
将校は兵隊と別の給與であるということは知つておりましたし、それに基いて行いました。国際法にあるということを知つております。
もう一度質問の要点をはつきりとお願いしたいと思います。
同志スターリンへの感謝文、これには残留在ソ同胞の六万六千人が、九万五千人の中六万六千人が参加しております。このモスクワへの贈呈に当つては、各地区から代表を大衆の選挙によつて選んで送つております。そうして九月の七日だつたと思いますが、ハバロフスクにおいてこれの贈呈の委託式が行われまして、各地区、例えば四地区、四地区から同志小澤以下十数名、それから五地区から美勢君以下十数名です。それから十九地区からは依田君以下十数名、それから沿海州からは須藤君以下二十数名の人達が集まつたと思います。そうしてここで民主的な方法で代表を決めよう、こういう話になりまして、結局五名が決定したわけであります。
高山、土井、相川、小澤、美勢。
この問題について大体本文は……。