オハ地区、その外の若干の地区が、我々の方から代表を送れないからハバロフスク地方へ委託すると言つて来ております。
オハ地区、その外の若干の地区が、我々の方から代表を送れないからハバロフスク地方へ委託すると言つて来ております。
大体署名は六月の上旬から……九月に贈呈式が行われたように記憶いたしますから、その前に大体終つております。
大体終つております。
日本新聞の社長はおられます。
コワレンコ中佐であります。
ハバロフスク地方の全部を一括して、又沿海州が参加して一応依託贈呈の祝典カンパをやりましたのは、九月の……十月の七日でございます。
今の日にちの問題、やはり九月の七日であります。それからマガダンでございますか。
マガダンは記憶にありません。大体各地区から日本新聞、並びにハバロフスク地方の司令部に宛てて署名箱がどんどん送られて来ておりましたから、その点だけ附加えておきます。
そういうことは各地においてしばしばありました。特に初期の頃は反動的な将校が分所の実権を握つておりました。そして通訳も彼らの支配下にあつたわけです。
これは反動将校は常にロシヤは敵国であるから、ロシヤに対して貢献するがごとき作業はやつちやいけない。作業サボを常に宣伝煽動しておりました。そういうような関係で、結局支動将校の言うがごとき方法でやるならば、收容所はますます暗くなつて行く一方であります。そうして今言つたように、八時間でできるところも、全然作業サボをやつてやらないというような状態で、最も作業成績の惡い分所においては、十時間まで二時間の追加をやらすというようなことは設けられましたけれども、漸次運動が進展するに従つて、こういう状態はなくなつて、收容所は極めて明朗になつて来たわけであります。
懲罰ではありません。それは全然懲罰ではないのであります。
ソヴィエトに入りましてから、反動的な将校共は、今度の戰争は敗けたのではない、停戰協定によるものである、であるからしてお前達は帰るまで、日本の軍隊の法規に従つて動かなければならない、若しそれに反する場合は、軍法会議に帰つてから付するというような工合で、あらゆる圧迫が、そうして暴虐な限りが我々の上に加えられて参りました。特に自分のコムソモリスクの第一分所には三百大隊ありまして、自分は二百七十三大隊であります。そうして自分は三中隊でありまして、高山助教授は二中隊でありました。かかる状況から、我々が苦境を切り開いて行くためには、同じ境遇にある我々が団結して行かなければいかんというので、我々は当時は非常な圧迫下にあつたにも拘りませず、しばしば
それは千九百四十五年の十月であります。九月の二十九日に分所に入りましてから、それから直ちに運動が展開されたわけであります。それで高山助教授が虐殺された直接の原因といたしましては、彼は病気で入院しておつたわけです。そうして入院から下番いたしまして歸つて、本官要これは関東軍の第五軍の参謀所におつた中尉でありますが、挨拶に行つたわけです、山本という下士官と……。そうしたところが挨拶の仕方が惡いからやり返せというわけで、高山助教授はそれに従つて又外に出てノツクをして入つたわけです。そうしたらまだ不十分であるからというので、こういうことが四五回繰返されて行われたわけです。そうしたところが高山助教授が、大体この事件のあつた当日は、十月の二十二日
もうちよつと関連があるのでありますから……。
そのようにして高山助教授は虐殺されて行つたわけでありますが、直ちに我々はこの問題をソ連側の方にお願いしたのですが、これは不十分である。当時吉井という軍医が急性肺炎で診断書を書いておるので、これに基いて不十分であるということで、一応済んだのでありますが、我々はこれだけではどうしても満足できない。民主々義のために倒れた高山助教授は、これは決して高山個人の問的ではなく、民主的な当時のシベリヤにおける我々全体の問題であるというので、モスクワの方にお願いいたしました。これは結局四八年、去年の十二月の十三日に問題が明瞭になりまして、本宮、それから上島、長内、この三名が極東軍法会議に付せられまして、私証人として参加いたしました。で、ソヴエツトにお
大体ハブロフスク地方に五、六十名の帰女子が来ておりました。そうして大体主としてハバロフスク、それからライチハ、それからビロピジヤンの四十六地区、ホールに分散しておりましたが、これは大体四十六年の第一次梯団で主力が帰つて参りました。それから四十七年の七、八月頃までには全部帰つております。特にあすこに希望して残られた須藤敬子さん、この人は現在東京に帰つておりますが、その人を除いて、ハバロフスク地区におられた婦女子は全部帰つております。各地区の状況については、詳細は知りませんが、帰女子が入つておつたのは非常に少い数で、現在殆んどいないと、かように思います。
捕虜の食糧の規定、これは同じであつたのでありますが、その内容において質において非常に好調になつておりました。私の経験から申上げますなら、最初の頃は主としてコムソモリスクにおいては、河で獲れた鯰が配給されておつたのでありますが、ずつと四六年の末から四七年にかけては、鮭、それから諫、こういうものがどんどん配給されているというような状態でありましたし、それから作業能率を上げます者に対しては、特に増配が五十グラム行われるというような状態でありまして、ソヴイエトの国力の恢復、復興、発展と同時に、我々に対する特別の配慮が行われております。又高梁等も原穀でくれておりましたが、これはどんどん我々の方で搗いて食べる。或いは米等も最初は玄米でありました
反動将校が定量をごまかしておつたという事実は、これは……。
認めます。
大体主としてこの署名運動に参加いたしましたのはハバロフスク、沿海州地方、それから樺太のオハ、それからずつと遠い所で、我々の方で出向いて行けない所は、向うの方から署名分を一括して我々の方へ送つて来まして、これを我々の方で更にまとめてモスコーに送るような手続をいたしました。でありますから中央アジア、モスコー附近の方からも、これに参加いたしておりまして、ただ地区名を記憶いたしておりません。